カモメノート

自由帳

好きな季節は夏です

和歌で好まれるのは、春か秋だ。春秋の争いという言葉があるくらい、春と秋の人気は高い。次に来るのが冬で、夏は一番人気がない。

不勉強ながら理由は分からないが、あの夏の京都で、現代のように涼を取る手段がたくさんあるわけでもないことを考えると、歌を詠む気になれない気持ちになるような気はする。

しかし、私が好きなのは夏。夏が一番好きだ。単に過ごしやすさで言えば、それは春か秋だろうが、しかし、概念的な、イメージ的な意味で好きな季節は夏なのだ。

春は花が咲いて日差しも麗かで素晴らしいが、少し明るすぎる。出会いと別れの季節なので、ふと一抹の寂しさを感じたりするが、明るさがベースの寂しさなのだ。

秋は夏の次に好きだ。赤く華やかに染まる紅葉も、じきに冬枯れすると思うと、どこか人生の儚さを思わせる。

冬は一番興味がない。雪の降らない大阪に生まれ育つと、あまり冬ならではのイメージが湧かない気がする。私が鈍いだけかもしれないが。誕生日プレゼントにお年玉、お父さんが持って帰るバレンタインチョコレートといった実益を兼ねたイベントしか記憶に残っていない。そもそも寒いのが嫌いなので、いいイメージを抱きづらいのはある。あえていうなら、年越し前の浮き立つような気持ちくらいが特別かもしれない。

夏の好きなところは、夏が様々な顔を持つ(と、私には思われる)からだ。私は夏の匂いが好きだ。空や光も美しい。早朝五時ごろのさっぱりと清潔な朝焼け、昼下がりのの眩い明るさ、午後の入道雲とにわか雨、夕方になって日が沈んでいく西の空、昼間とは打って変わって静まり返った夜。緑が生い茂り、かしましく蝉が鳴き、底抜けに太陽が明るい季節なのに、どこか暗さや寂しさが漂っている。それは夏休みという一年で一番楽しい時間のなかに、原爆投下の日と終戦の日があることが一因である気もする。

 

新古今和歌集に、次のような歌がある。

 

秋ちかきけしきの森になく蝉の涙の露や下葉そむらん

 

夏の歌だ。蝉は夏限りで死ぬ。その蝉の涙が葉は色づかせるのだろうか、と言い、鮮やかな紅葉を連想させる。だからといって、美しい秋の訪れをただひたすらに楽しみにしている歌ではなくて、陰りがある歌だ。

夏、下鴨神社境内の糺の森を歩くとき、この歌を思い出す。けしきの森は九州の方の歌枕なので、糺の森は全く関係ないのだが、私にとってはあの森そのもののような歌だ。もの悲しく鳴く蜩の声と、夏独特の光の差し方、夏至を過ぎて少しずつ短くなっていく日、ふと感じる秋の風。そうした記憶をはっと呼び覚ますような歌で、新古今和歌集の中でもいっとう好きな歌なのだ。

 

新古今和歌集は本当に面白いので、それぞれの季節の私の好きな歌だけでも読んでみてほしい。

 

青柳のいとに玉ぬく白つゆの知らずいく世の春か經ぬらむ

露すがる庭のたまざさうち靡きひとむら過ぎぬ夕立の雲

ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月かげ

夢かよふ道さへ絶えぬくれたけの伏見の里の雪のしたをれ