カモメノート

自由帳

幸せな絵画たち

印象派の絵が好きだ。展覧会があれば必ず観に行くし、部屋にはポストカードを飾っている。

例えば、ルノワールの絵は幸福に満ちている。私が寡聞にして知らないだけかもしれないが、不幸そうな絵は見たことがない気がする。印象派特有の明るい光、薔薇色の頬、柔らかな髪、可愛らしいドレス。ルノワールの絵は押し付けがましくなく、思想を強要せず、知識を必要としない。

勿論ルノワールをはじめとした印象派の画家たちは、新しい表現に挑戦し続けた芸術家であり、それぞれ思想があったに違いないし、知識があればより楽しめるだろう。それでも、ギリシア神話キリスト教の教義の深い知識を持たずとも、楽しむことができる。

ボッティチェリの絵は知識がなければ謎の絵だが、ルノワールの絵は万人に開かれている。時代によって絵の持つ価値も、画家のおかれている立場も変わるので、どちらが良いとか悪いとかではなく、現代人が鑑賞するにあたっては、単に好みの問題だと思う。

私は万人に開かれた絵が好きだ。日常の美しさや、何でもない幸福を描いたルノワールの絵が好きだ。難しいことを考えたくないだけだろうと言われてしまってはそれまでだが、前提知識が充分でないままアレゴリーに満ちた絵を鑑賞すると、なんだかどっと疲れてしまう。元々絵を依頼していた貴族たちにとっては、彼らの教養をもって読み解けたのかもしれないが、残念ながら私は違う。そして教養を身につけてまで絵を読み解きたいという情熱が、まだ生じていない。

もう一つは、やはり光の表現の違い。元々絵画が室内で描かざるをえなかったことや、神話や古代(聖書の時代)を描いていること、画家が絵画に求めるものが異なることを思うと当たり前なのであろうが、印象派の光の煌めきの美しさを思うと、やはり後者のほうが好きだ。

 

なお、印象派で一番好きなのはモネなのだが、モネを超えて好きな画家が、バルビゾン派カミーユ・コローである。風景画が有名だが、薄靄がかった空の色、淡く滲むような葉、銀色の水面の表現が幻想的で、夢の中にいるような、浮世離れした美しさがある。そして、表情こそ見えないが、幸福そうな人々の姿が描かれている。

昔、パリへ旅行に行った時、ルーブル美術館でコローの名作「モルトフォンテーヌの思い出」を観たが、あの感動は忘れられない。途方もなく広いからというのもあるだろうが、日本の美術館のように混雑していないので、絵の前に張り付いて、食い入るようにながめた。

そのあと、バルビゾン派の名前の由来であるバルビゾン村にも行ったのだが、それが観光客向けに作られているのだとしても、のどかで暖かかくて、こういう場所で朝目覚めて、夜眠れたら素晴らしいと思えるような場所だった。

幸福な絵と出会えたとき、生きていてよかったな、と感じる。そして、描かれた人たちの人生を思い、描かれた瞬間の幸福を思うと、なんだか泣きそうになる。描いた人も描かれた人も、今はもう死んでしまっていないのに、昔確かに生きていて、幸せだった瞬間があって、それが絵画に閉じ込められて、未来永劫残っていくと思うと、人生はなんて不思議なんだろうと思うのだ。

そういう幸福な絵と出会うことはそう多くないのだけれど、そういう絵に出会いたくて、絵を見に行くのはやめられない。