カモメノート

自由帳

地獄と呪い

小学校と中学校が大嫌いだった。

すごく荒れていたから。いじめもたくさんあった。普通のいい子が急にいじめられることは勿論、今日いじめていた子が、次の日からいじめられることもあった。

友達が少なくて(仲の良い子が転校したり、不登校になった)、みんなと同じものを好きになれなくて、スポーツがへたくそな私は勿論いじめられた。下足を落ち葉の詰まったゴミ袋に隠されたし、理科の実験は仲間外れにされた。体育の授業は派手な女の子たちだけじゃなくて、先生にも笑われた。そう、先生は気が強い生徒に逆らわなかった。スカートを折って短くしている生徒には注意をしなかったのに、成長期で十五センチ背が伸びて、スカートが短くなった私は注意された。あの頃、先生という生き物が大嫌いだった。全く信用していなかった。この世のほとんど全てを憎んでいたし、早く死にたいと毎日願っていた。さながら地獄にいる気分だった。

そんな当時、私は英語が好きだった。より正確に言うと、英文法が好きだった。中学校三年生に差し掛かった頃か、進路を考えなくてはならない時期に、確か母が教えてくれたのだが、私は「英語科」の存在を知った。高校に、普通科や英語科や理数科といった種別があることを、それまで知らなかった。母は私が中学校を嫌いなことをよく知っていたから、英語科のなかでも、絶対に同じ中学校の子が進まないであろう学校を勧めてくれた。実際に学校見学にも行き、私の希望はその英語科に決まった。

しかし非常に残念なことに、私は数学が苦手だった。信じられないほどの成績で、偏差値で言うと数学は35しかなかった。だから皆口を揃えて言った、「あなたの成績でその高校は難しい」と。公立だから、数学の成績も人並み程度には必要だったのだ。さらに言うと、私は学校を休みがちであまり内申も良くなかった。当時大阪府相対評価を採用していたので、余計に数値に響いた。

そんな私を見捨てなかった数少ない人が、当時通っていた塾の先生だった。確か当時23歳だと言っていたが、自分が23のときを思い返すと、信じられないほど大人だったと思う。数学の先生だった。数学が大嫌いな私の面倒を見てくれた。塾の授業は19時から20時半までだったが、「学校が終わったらすぐに自習室に来て勉強しよう。残れる日は22時まで残って勉強しよう」と言ってくれた。数学が苦手で苦手でたまらない私は、それでも自習室に通い、数学の問題集を解いた。どうしてもその高校へ行きたかった。先生は、授業の合間に様子を見に来てくれて、勿論授業も受け持ってくれて、分からないところをたくさん教えてくれた。

ゆっくりしか上がらない成績だったが、模試の偏差値がちょっとずつ上がるたび、先生は喜んでくれた。「この調子で頑張ろう」と。思い返すと、先生にダメ出しをされたことがない。これじゃあダメだと言われたことがない。忘れているだけなのだろうか?でも、記憶に残っているのは、問題が解けなかったときに苦笑いをしながら「もう一回解いてみ!」と言ってはげます姿と、問題が解けたときの笑顔ばかりなのだ。

中学校三年生の春、夏、秋、冬と勉強に注ぎ込んだ。夏休みは塾に入り浸りだった。シャープペンシルの芯がたくさん折れた。英語のテストに合格すると、成績表に赤いシールを貼ってくれた。数学は、一年生のテキストから順番に解いていった。正負の数、因数分解二次方程式、証明、平方根。冬休みも同じように勉強した。中学校は相変わらず地獄だったが、地獄から逃れるために勉強をした。苦手な勉強をするのは辛かったが、学校にいるときよりずっと自由だった。

年が明けて、2月になると、本試験がはじまる。今でこそ私は試験直前でも全く緊張しない図太さを持っているのだが、流石にはじめての受験の前は緊張していたのかもしれない。受験前日も塾で勉強をしていた。寒い日だった。塾が閉まる時間になり、私は勉強道具を仕舞って帰ろうとした。生徒たちがさよならを言うと、先生たちはがんばれ、と返してくれていた。

いよいよ帰るそのとき、数学の先生が「ちょっと待って」と呼び止めた。先生は私に小さなお守りを差し出した。白地に白い糸で藤の花が刺繍されている。真ん中には金糸で「勝守」と織り込まれていた。春日大社のお守りだった。「くれるんですか?」と聞くと、先生はやっぱり笑っていて、「大丈夫。お守りに呪いかけといたから。がんばれ」と言った。辛いことがあまりに多くて、ひねくれていた私のために、きっと呪いだと言ったのだ。私はお礼を言って帰った。家に帰る道すがら、お守りを何度も見つめた。

試験の日のことはあまり覚えていない。当時まだ古典を好きでなかったので、国語が難しかったことは記憶に残っている。そして半月ほどした3月3日、合格発表の日、合格者番号を掲げた掲示板に、自分の受験番号を見つけた。私より先にお母さんが見つけて、私より喜んでいた。これは入学後に成績開示で知ったことだが、私の数学の点数は合格者の中でも上位だった。他の誰でもない、先生のおかげだ。

本当は、すぐに数学の先生に伝えなければいけないはずだった。一年間のなかで、誰より一番にお世話になったのだから。しかし、これが最後だと思うと、なかなか塾に行けなかった。そのうち塾の事務から電話が来て、合格しましたかと聞かれた。はい、と答えて電話を切った。

それから数日後、やっぱり直接言わなくてはと思い、塾へ行き、数学の先生に報告した。「聞いたよ。おめでとう。やったやん!」と喜んでくれた。いつもの優しい笑顔を浮かべていた。そして「俺、今月で最後やねん。今までありがとう。高校は絶対に楽しいから。大丈夫」と言った。泣きたくなったけれど、我慢して、「本当に今までありがとうございました」と告げて、別れた。帰りは塾の送迎バスに乗せてもらい、お守りを見つめて泣いた。

 

先生の言うとおり、高校はとても楽しくて、充実した三年間だった。好きな英語を勉強し、古典を好きになり、茶道を楽しんだ。今でも高校の子とは仲が良く、機会があれば会って遊ぶ。地獄から抜け出させてくれたのは、数学の先生のおかげなのだ。先生が「この成績でその高校は無理だよ」と一度も言わないで、「数学やるで!」と言い続けてくれたから、私はがむしゃらに頑張れた。自分が行きたい場所に行くことができた。

それでも辛い時や、大学受験のとき、あのお守りに沢山祈った。うまくいきますようにと、何度も願った。白かったお守りは、手垢で黒く汚れ、糸がほつれた。あのお守りは、私の宝物だ。

大学に入り、私はその塾でアルバイトをした。数学は教えられなかったが、英語と古典を教えた。先生みたいにうまくできなかったけれど、少しでも誰かの役に立てていたなら嬉しい。その当時、他の先生から聞いたが、先生はあの後、中学校の先生になったらしい。「高校すごく楽しかったです」と言いたかったけれど、もう二度と会うことはないだろう。

だから私は年に一度は春日大社に行って、お祈りをしている。どうか先生にありがとうと伝えて欲しいと。あの呪いがあったから、私は今自由に生きることができて、救われて、ほんとうに感謝しているのだと。先生が今どこで何をしているか知る由もないけれど、どこかで笑って生きていて欲しい。そして、今もきっと誰かを元気にしているのだと、信じている。