カモメノート

自由帳

寂しさはその色としもなかりけり

人生ずっと何となく寂しいと思って生きている。世の中の人みんなそういうものなのかも知れないが、中学生くらいからそうだった気がする。慕っていたカナダ人の先生が国へ帰ることになり、部屋のベランダから空を見て泣いた。会えない寂しさというよりは、世の中は途方もなく広く、目の前に広がっている世間がいかに狭く、それにも関わらず目の前の物事が全てであることへの虚しさから泣いた。

しかも寂しさというのはたちが悪くて、蓄積されていくらしい。今まで積もり積もった経験からくる寂しさが、ふとした瞬間のちょっとした刺激で蘇る。寂蓮の有名な歌に「寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ」というものがあるが、寂しさに一つの理由を見つけるのは難しい。

寂しさを辛いとは思わない。孤独というのも違う。誰かに気持ちを分かって欲しいなどとは思わない。誰かとずっといたいとも思わない。このどうにもならない寂しさと見つめあっていたいとすら思う。しかし逃げたい時もある。

寂しさは虚しさに近い。虚しいというか、なにかが欠けている気がする。欠けているというよりは、拾い損ねてきたというほうが近いかも知れない。

 

拾い損ねたものを拾い上げたいからなのか、寂しさを忘れたいからなのか、一人でふらふらと出掛けて、旅をして、古刹を訪ね、古典や小説を読むが、人生を重ねるごと、あるいは知識や経験を積むごとに、寂しさはいっそう増す気がする。それは私個人だけの寂しさだけではなくて、今まで生きてきた人たちの寂しさを少しずつ引き受けていって、溜まりに溜まった寂しさだ。旅先で彷徨いながら、アパートのベランダに揺れる洗濯物や、古びた美容室などを見ると、その土地で暮らして死んでいく人たちの生活が垣間見えるようで、寂しくなる。古刹のお堂の木の床を踏むと、遥か昔に同じようにその寺を訪れた人がいたことに寂しくなる。今までそこを訪れた人が何人もいて、その人たちにはそれぞれの人生があり、そして死んで行き、今はもう何もないということが寂しい。

そういう寂しさは年を経るごとに増えていき、一人で彷徨うときや、誰かと会って別れた後の虚しさは並々ではないが、だからと言って誰かとずっと一緒にいることで解決するわけでもない。

 

古典の名文が後世に残り続けるのは、普遍的に人の胸を打つからだろうが、平家物語の冒頭を読み上げれば、やるせなさも寂しさも少しは慰められる。たとえ今がどれ程嬉しくても、苦しくても、いつかは無くなるものだと思えば心は平穏でいられる。死ぬということがどれほど空虚な気持ちをもたらすものであっても、いつか死ぬことで煩わしいこと全てを終わらせることができることは慰めでもある。

しかしながらそれは根本的な解決にならないわけで、この手に負えない虚しさや寂しさを無くすためにどうすればいいのか全く分からない。だからと言って死にたいと言うのとは違う。生きている以上はいつか死ぬことが慰めであったとしても、それは万事を見ずに済むようになるだけで、決して解決ではないからだ。そうだとしても、俊成卿女は「恨みずやうき世を花のいとひつつ さそふ風あらばと思ひけるをば 」と詠んだが、実際風に誘われさえすればこの世をあっさり捨てることができる桜の花を、どうして妬ましくないと思わないだろうか。