カモメノート

自由帳

夢の花

美しい夢を見た。

灯りのない古びた六畳間の一室にいた。その部屋は一面だけが硝子張りになっていて、そこから庭が見えるのだ。庭には広い池があり、その傍らに枝垂れた枝に花を咲かせた古木がある。薄暗い部屋から覗く庭は春の柔らかな光に満ち満ちて、唐紅の花は鮮やかに咲き誇っていた。あまりに美しいから、ずっとこの夢が覚めなければいいにと思った。

夢の花を、初めは枝垂れ桜かと思ったが、桜よりずっと赤くて、目覚めてからよくよく考えると枝垂れ桃に近いようだった。

 

私は桜が好きではない。「ことならば咲かずやはあらぬ桜花」「世の中に絶えて桜のなかりせば」だとかそういう愛憎相半ばするような思いではなくて、単純にあの、忙しなく散っていく様がつまらないからだ。突然花を咲かせたかと思えば、少し風が吹いて雨が降れば散る。そうでなくてもすぐに散る。しかも派手に散るから騒々しい。綺麗だと全く思わないわけではないが、他の花と比べて格別に美しいとは思わない。梅、桃、木蓮、くちなし、山吹、蓮、桔梗、水仙、百合、椿。他に美しい花はいくらでもある。それでも夢の中にまで出てきて、真っ先に頭に思い浮かぶのは桜なのだから滑稽だ。国中に植えられて、文化的にも親しまれてきた花だから、嫌でも頭に刷り込まれているのかもしれない。 

桜が好きではなくても、誘われて花見に行ったりはするが、中でも記憶が鮮明で忘れられない思い出が一つだけある。高校一年生の春休み、自習のために学校に入り浸って、飽きもせずに古典文法やら英語の頂部読解やらを勉強して、お昼になったら友達とコンビニへ食事を買いに行っていた。校門の近くには桜が植えられていて、ちょうど入学式の頃に咲く。四月の頭を過ぎた頃には、白いタイル張りの通路に、淡い色の花びらがひらひらと落ちていくのだ。桜の花を横目に、毎日登下校をしていた。

その日も、お昼ご飯を買いにいくために校舎を出ると、先生が一人門扉の傍らにいて、はらはらと散る桜を眺めていた。その時、ふと桜を美しいと思った。その背中はどこか寂しくて、人生五十を過ぎた人間の人生を感じた。先生はあの忙しない花を見て何を思うのか知りたい、と漠然と思ったけれど、それを聞く術は私にはなかった。

先生のことは先生として慕っていたから、たとえ誰が何と言おうと、私はあれが恋だったとは全く思わない。それでも桜の花を見るたびに先生を思い出して寂しくなるから、やっぱり桜は憎たらしいなと思ってしまうのだ。

寂しさはその色としもなかりけり

人生ずっと何となく寂しいと思って生きている。世の中の人みんなそういうものなのかも知れないが、中学生くらいからそうだった気がする。慕っていたカナダ人の先生が国へ帰ることになり、部屋のベランダから空を見て泣いた。会えない寂しさというよりは、世の中は途方もなく広く、目の前に広がっている世間がいかに狭く、それにも関わらず目の前の物事が全てであることへの虚しさから泣いた。

しかも寂しさというのはたちが悪くて、蓄積されていくらしい。今まで積もり積もった経験からくる寂しさが、ふとした瞬間のちょっとした刺激で蘇る。寂蓮の有名な歌に「寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ」というものがあるが、寂しさに一つの理由を見つけるのは難しい。

寂しさを辛いとは思わない。孤独というのも違う。誰かに気持ちを分かって欲しいなどとは思わない。誰かとずっといたいとも思わない。このどうにもならない寂しさと見つめあっていたいとすら思う。しかし逃げたい時もある。

寂しさは虚しさに近い。虚しいというか、なにかが欠けている気がする。欠けているというよりは、拾い損ねてきたというほうが近いかも知れない。

 

拾い損ねたものを拾い上げたいからなのか、寂しさを忘れたいからなのか、一人でふらふらと出掛けて、旅をして、古刹を訪ね、古典や小説を読むが、人生を重ねるごと、あるいは知識や経験を積むごとに、寂しさはいっそう増す気がする。それは私個人だけの寂しさだけではなくて、今まで生きてきた人たちの寂しさを少しずつ引き受けていって、溜まりに溜まった寂しさだ。旅先で彷徨いながら、アパートのベランダに揺れる洗濯物や、古びた美容室などを見ると、その土地で暮らして死んでいく人たちの生活が垣間見えるようで、寂しくなる。古刹のお堂の木の床を踏むと、遥か昔に同じようにその寺を訪れた人がいたことに寂しくなる。今までそこを訪れた人が何人もいて、その人たちにはそれぞれの人生があり、そして死んで行き、今はもう何もないということが寂しい。

そういう寂しさは年を経るごとに増えていき、一人で彷徨うときや、誰かと会って別れた後の虚しさは並々ではないが、だからと言って誰かとずっと一緒にいることで解決するわけでもない。

 

古典の名文が後世に残り続けるのは、普遍的に人の胸を打つからだろうが、平家物語の冒頭を読み上げれば、やるせなさも寂しさも少しは慰められる。たとえ今がどれ程嬉しくても、苦しくても、いつかは無くなるものだと思えば心は平穏でいられる。死ぬということがどれほど空虚な気持ちをもたらすものであっても、いつか死ぬことで煩わしいこと全てを終わらせることができることは慰めでもある。

しかしながらそれは根本的な解決にならないわけで、この手に負えない虚しさや寂しさを無くすためにどうすればいいのか全く分からない。だからと言って死にたいと言うのとは違う。生きている以上はいつか死ぬことが慰めであったとしても、それは万事を見ずに済むようになるだけで、決して解決ではないからだ。そうだとしても、俊成卿女は「恨みずやうき世を花のいとひつつ さそふ風あらばと思ひけるをば 」と詠んだが、実際風に誘われさえすればこの世をあっさり捨てることができる桜の花を、どうして妬ましくないと思わないだろうか。

好きな音楽:ドリーム・ジプシー

ビル・エヴァンスのアルバム「undercurrent」のなかに「dream gypsy」という曲がある。


ポロンポロンと溢れるような音から始まって、底の方で、低いギターがかきならされる。まるでオフィーリアのようなアルバムのジャケットに思考を引きずられているのだろうが、物悲しく美しいピアノとギターの音が絡まりあい、水の中に静かに沈んでいくような思いがする。「夢うつつのジプシー」、今はジプシーとは言ってはいけないかもしれないけれど、それくらいの意味だろうが、いったいどれほど寂しい夢を見ているのだろうかと思う。静かな水の中に深く沈んでいって、おぼろげな月の光しか見えていないような曲。夢に囚われてしっかり立てず、頼りなくて、足を縺れさせて歩いているような曲。曲調はさることながら、タイトルはその曲へのイメージを規定する。夢という言葉の持つ、儚さやあやふやさと、ジプシーという言葉の持つ、異国的で、一か所に留まらず、なにものにも束縛されないような不安定さが絡まりあって存在している。

ビル・エヴァンスアメリカ生まれだが、私は修学旅行で初めてアメリカに行った時、その大地の茫洋としたさまに、なんて心許なくて、寂しい国なんだろうと感じた。明るく優しいアメリカ人に出会い、シカゴの大都会も見たはずだけれども、それよりも心に強く残っているのは、バスから見た、煤けた土色をした、埃っぽい大地だった。道すがら、給油と休憩のため立ち寄った田舎のガソリンスタンドには小さな商店が設えられて、小太りのおじさんが、修学旅行生の私たちを少し珍しそうに眺めていた。おじさんは、チェックのシャツを着ていた。そこだけ記憶があまりにも鮮明なので、かえって夢だったのではないかと思うほどだ。アメリカという国の、知らない一人の人間の、恐らく短くないだろう人生を思うとたまらない気持ちがする。誰かのお腹から生まれて、幸せか不幸かにかかわらず育ち、大人になり、毎日を過ごした人間と、知らない国ですれ違った事実が不思議で、まるで夢を見ているようだと思う。

旅をしているとそういう瞬間に何度も巡り合うけれど、旅中で出会ったものを忘れても、知らない土地を見た時にこみ上げる悲しさや、知らない誰かに出会ったときの胸を締め付ける苦しさを忘れることはできない。だから私にとってアメリカは、いつまで経っても寂しい国であり続けると思う。それは決してその国が嫌いだとか、不愉快だという意味ではない。ドリーム・ジプシーを聴いている時と同じで、自然や大きなうねりの中での人生のままならなさを嘆きながら、強く惹きつけられている。

ところで、私にビル・エヴァンスを教えたのは、高校の演劇部の先輩だった。教えたと言っても、その先輩は無口だったし、仲が良いわけでもなかったので、話の中で教えられたわけではない。喫茶店が舞台の演劇で、バックミュージックとしてビル・エヴァンスの弾く「autumn leaves」を用意したのが先輩だった。私は音響役で、その曲を何度も繰り返し再生させた。先輩の声も性格も思い出せないが、重たげな前髪と黒い縁の眼鏡がおぼろげに記憶の片隅にある。

旅行にせよ、演劇部にせよ、仲良く話したはずの人のことはすっかり忘れてしまいながら、会話をろくに交わさずに別れた人のほうが、かえって強く記憶に刻まれたりする。そして後になって昔を思い返しては、あれは本当に現実だったのか?夢だったのではないかと思わせる。ドリーム・ジプシーは、そういった、昔の曖昧な夢や清潔な寂しさを思い起こさせる曲なのだ。

駿河なる宇津の山辺のうつつにも

塾でアルバイトをしていたときの夢をみた。正確に言うと、かつてアルバイトをしていた塾で、いまアルバイトをしている夢。

 

個別指導用のプレハブの小さな建物に、ブースが八つ。今日の担当講師と生徒の名前が書かれたホワイトボード。学校にあるのと同じ、メラミン化粧板にスチールの机と椅子。講師用の控室と、トイレが一つ。教材がぎっしり詰まった棚。辞めてから一度も会ったことのない、同じアルバイトの先生たち。もう四年半以上昔の話だというのに、夢は鮮明だった。普段はすっかり忘れて生きているのに、顔も名前も鮮やかだった。どうしてだろうか、目覚めているときは、遥か昔の話のように感じるのに、四年半と言葉にすると、ほんのこの間のような気がする。

塾は19時から21時50分まで、2コマの授業をするのが常だった。その後、先生同士でミーティングをして、気になったことは共有する。それが終わったら戸締りをして、プレハブのドアの鍵を閉め、小さな車道を挟んで向かいの本館にある事務所でタイムカードを押すのだ。夢の中でもそうした。夢の中の私は、出勤時にタイムカードを機械に通し忘れたらしい。「来た時、タイムカードを通し忘れてしまって......」そう言うと、本館の先生が笑って「ペンで書いてくれたらいいよ」と言った。

事務所の中は、何も変わらなかった。事務机が五つあり、生徒が出欠簿を出すカウンターがあり、自習用の机があり、教材の閉まってある棚が三つ並んでいて、小さな給湯スペースがある。現実で、私は何回か事務の手伝いもして、給湯スペースでポットの水垢を落としたり、麦茶を作ったり、生徒が使ったプラスチック製のカラフルなカップたちを洗ったりしていた。あの水に濡れたカップのざらざらとした感覚を今でも思い出せる気がするのに、もう六年前の話なのだ。

夢の中でもなぜか胸が詰まる思いがして、タイムカードラックにまばらに差込まれたタイムカードの名前を目で追った。事務室には懐かしい先生たちの顔があったのに、でも、一番に会いたいはずの数学の先生はいなかった。私はその後すぐに、「お疲れ様でした」とだけ告げて、すこし重い曇りガラスの扉を開けて、帰ってしまったのだ。

これは現実にはない景色か、あるいはかつてどこかで見た景色の切り貼りだが、塾を後にしたら、やがて両脇を田圃に挟まれて、小さな用水路沿いに、私は歩いて帰った。そんな場所は現実にはないのに、なぜかひどく懐かしかった。夜の暗闇に、せんせんと流れる水の音と蛙の鳴き声ばかりが響く。稲はまだ葉が若く、青かった。気持ちの良い夜だった。その時ふと、私は不思議に思った。「あれ、塾はもう閉業して、なくなってしまったんじゃなかったっけ?」「ああそうか、閉業したけれど、また始めたんだった」でもそこで、夢を見ながら、これは夢なのだと分かってしまった。その時自然にすうっと目が覚めた。

 

私は昔の話ばかりをこうして夢に思い出しては日記に書くけれど、それを虚しく悲しく思うこともある。過ぎたことばかりを大事にして、今感じていることは何も書けない。何も思わない。多分頭がすこし鈍いのだろう。今起きていることを、美しく思い返すことができなくて、上手く大事にできなくて、過ぎてから本当は大事だったことに気付いて、もっと上手くできればよかったのに、と思う。その時には、大事にしたかったものも、人も、もう手元にはない。だからせめて、書き残しておきたい。もう現実には手に入らないものだから、いつかきっと夢にも見なくなって、忘れてしまう。大伴旅人は「現には逢ふよしも無し ぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ」と詠んだけれど、本当に会いたい人には、もう夢の中でさえ会えない。夢で会えないなら、会えるのはもう頭の中だけだ。だからこうして言葉にして残して、忘れないようにしていたい。

本当に、昔を懐かしく思うほど、和歌ばかりが頭に過ぎる。「駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」。「いかにせむ山の青葉になるままに 遠ざかりゆく花の姿を」。和歌を読んでいる時は決して寂しくない。だから、私に和歌を教えてくれた古典の先生に感謝している。そして、その先生に引き合わせてくれた数学の先生に、誰よりも。

早く春日大社に行きたい。そして祈りたい。ありがとうと伝えたい。でも春日大社に行くと、いつも寂しい。懐かしいものは全て関西に残してきたから、関西にいると胸が苦しい。だから私は西へ帰らないのかも知れない。寂しいから、ずっと和歌集を読んで慰められていたい。

一服差し上げます

茶道に「鏡柄杓」という構えがある。左手で節の下を持ち、右手を切り止めに添えて、柄杓の合と向かい合う。どんなに辛く悲しいことがあっても、合と向かい合う瞬間だけは、心が落ち着く思いがする。

 

 

学生のとき、ずっと部活動で茶道をしていた。中学生で初めて茶道部に入ってから、高校も大学も茶道部だった。

中学校では、茶道初心者が必ず通る「盆略手前」と「千歳盆」を習った。どちらも瓶を使う点前で、釜や柄杓は使わない。重い瓶は片手で持ち上げるのに苦労する。中学生の頃の私は、少し英語が好きなくらいで、他には熱中するものがないつまらない子供だったけれど、何故か茶道は好きだった。

普段真面目に稽古していたわけではない。月に一度、地域のお茶の先生が来るので、その日は一所懸命励んだ。こう書くとアピールのように思われるかもしれないが、そうではなかった。先生に一つ一つの作法を教わり、袱紗を捌き、瓶の湯を茶碗に注ぎ、茶を立てる、全ての動作が好きだった。他の生徒が先に帰ってしまっても、先生とふたりきりで向き合って、手前を教わったのだ。部室は西日が当たる部屋だったから、水屋から茶室を覗くと、畳が橙色に染まって美しかった。窓から見える池の水面が、夕日を反射してきらきらと輝いていた。

 

高校では、最初は茶道部に入らず、演劇部に所属したが、演劇に強い興味を持てないまま古典にのめり込んで、毎日演劇部で練習をする時間がもったいなくてじきに辞めてしまった。高校演劇の台本が、どうも私には苦手だった。

晴れて自由な時間を手に入れ、毎日古典の助動詞を眺めたり品詞分解をしたりするのは楽しかったが、それでもふと頭に浮かぶのは茶道をしたいという気持ちだった。夕方の和室で、先生と二人向き合ってひたすらに稽古に勤しんだことが忘れられなかった。どれだけ新しい和歌に出会っても、どれだけ古典単語を覚えても、どれだけ英文を読み続けても、茶道は常に頭の片隅にあった。だからもう一度茶道部に入った。

高校の茶道部も外部から先生が来てくださる形で、先生が来る日は近くの商店街へ和菓子を買いに行くのが常だった。その店は苺大福が美味しくて、お菓子の中に必ず一つは苺大福があった。私はまた盆略から始め、風炉薄茶点前などを教わった。

 

大学の茶道部は、とても一言では言い表せない。泥沼のような部活だった。辛く、悲しく、恥ずかしく、みっともなく、自分が醜く、そんな思いを何度もした。それでも思い返すと懐かしいことばかりなのは何故なのか分からない。そして、それでも茶道は嫌いにならなかった。茶道を愛していた。

 

こうしてずっと茶道を続けてきた理由は何なのか、何故こうも茶道に惹かれるのか、ずっと考えてきて、最近ようやく答えがわかった気がする。

例えば、茶道をすると仕草がきれいになるだとか、和の心やおもてなしの心を知ることができるだとか、そういったことをよく言う。先生にも思いやりの心を学べますと言われた。例えば夏の風炉釜の柄杓の合が小さいのは、暑い夏に沢山お茶は飲めないからだとか。夏は風炉釜、冬は炉を使うのは、暑い夏にはお客様から火を遠ざけて、寒い冬にはお客様が火の近くで暖まれるようにするためだと教わる。夏は涼しく冬暖かに。そういったことが思いやりで、おもてなしなのだと教えられて、茶道のそういうところが好きという人も沢山いた。

それを考えると、私は決して良い茶道の生徒ではないと思う。私はそれらを合理的とこそ思え、強く惹かれることはなかった。私は茶道をしている時だけ、ひたすら私を忘れられる。私だけではなくて、何もかもを。ただその目の前の一つだけに意識を集中できる。他人の評価も、自分の欲望も、その時ばかりはどうでも良くなる。英語が好きだったけれど、誰かに褒められたいと言う欲望が全くないわけではなかった。古典が好きだったけれど、勉強したら先生と話せると全く思わなかったわけじゃない。でも茶道だけは違って、茶道をしているときは、そこには何にもない。お茶を差し上げる相手がいて、自分がいるだけだ。深い水の底に沈んでいるように、ただ静かでいる。私にとって茶道は瞑想だった。

人工的な灯のない茶室では、五感は一層冴え渡る。着物の衣擦れ、摺り足、袱紗捌き、柄杓が竹の蓋置を叩く音。湯を注ぎ、茶を点てる音。夏の葉蓋の涼やかさに、冬、釜から立ち上る湯気。炭と白檀の深い香り。河原撫子、桔梗、侘助椿。黒樂に点てられた茶の鮮やかさ。夏は蝉の声が染みわたり、秋には秋の虫が鳴く。四畳半の薄暗がりの中に、ぼんやりと輪郭のない美しさがある。茶室で炭の支度をするとき、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を思い出す。そして何故だから分からないが、客として茶室に入ると、徒然草の一節が思い返される。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」

 

一つ断っておくと、茶道と茶道部は全く違う。部活動は若者同士の人間関係そのものだから、イライラもしたし、楽しくもあったし、辛くもあった。紛いなりに十年近く続けてきて、沢山の人と出会った。それは一言で言い表せるものではない。

ただ一つだけ分かることは、昔同じ時間を確かに過ごしたのに、皆でお茶をすることはもう二度とないということだ。それが一期一会ということだったのだろう。本当に嫌なことも恥ずかしいことも沢山あったはずなのに、思い返すと寂しくて胸が苦しくなる。学校を卒業してからもうだいぶ経つのに、今でも思い出す。

 

自分の気持ちは本当にままならないものだ。何年も経ってから答えあわせのように記憶は蘇る。数学の先生も、古典の先生も、茶道部の人たちも、何もかも全てが、私を寂しくさせる。

そうしてどうしてもやるせない時に、頭の中ではいつも柄杓を構えている。鏡柄杓、置き柄杓、切り柄杓、引き柄杓。そうすると、心が落ち着いて、深い水の中にいるような気持ちになって、あとはただそれだけになるのだ。

献燈の文字黒黒と冴え渡りこの地で生きる人の名を知る

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私は夏が好きだが、夏は特に郷愁に駆られる。色んなものが懐かしくなり、昔のことを思い出す。特に、こうしてどこにも行けない日が続くと、本当に昔のことばかりを思い出してしまう。

 

去年、私は新卒で入った会社を辞めて、七月のあいだ、有給を消化して自由気ままな時間を楽しんでいた。普段は東京に住んでいるけれど、一週間半ほど実家に戻ったりもした。その時ちょうど地元の小さな神社のお祭りが催されていて、何の気紛れか、行ってみることにした。

私は地元が好きではない。あまりいい思い出がないからだ。それでも、二十年以上住んでしまうと、否が応でも思い出は出来てしまうし、頭の底にこびりついて離れない記憶もある。それに、地元が好きではないというのは、地元の人が好きではないということに等しい。人口のせせらぎが流れる小道、夜になると不気味な池、林の奥にある謎の鳥居、小高い場所から見下ろした町、川と呼ぶのも躊躇われるような、水の細い川、桜が花を散らして緑に染まる様、草いきれの夏の匂い。そういった景色や感覚は、実はとても好きだった。それらは全て忘れ難い記憶として染み付いていて、偶に思い出したように夢に現れる。

地元の祭りに行こうと思ったのも、そうした郷愁に駆られたからだ。誘う人も、誘いたい人もいないので、一人で歩いて行った。私は昔から一人が好きだった。蝉の鳴き声を聞きながら、夕方の道をふらふらと歩いた。その日は昼間に少し雨が降って、太陽の光もどこか弱々しく、雲が空を覆ってじめじめとしていた。

目的地にたどり着いてみると、参道とも違う、神社のそばにある道には、いくつかの出店が連なっていた。綿飴やりんご飴、たこ焼き、ヨーヨー釣り。思ったよりたくさんの人が出店を見て回っていた。中学生くらいの女の子たち、浴衣を着た少女の手を引いて歩く母親、見るからに腕白そうな男の子の集団。出店の量だって大したことはない。六つ七つほど連なりあって並んでいるだけだ。その奥には小さなステージが設えられていて、どうやらカラオケ大会をするらしかった。

出店やステージには興味が沸かず、境内へ足を踏み入れた。神社は鬱蒼とした木々に覆われていて、汗が引く涼しさだ。先程とは打って変わって、地元の年配者が多かった。浴衣の少女が二人、父親に倣いながら共に手水舎で手を清めていた。親子が清め終えてから、私も後に続いた。水盤には西瓜が沈んでいた。お浄めが終わったら、石の階段を登る。この神社は、石段を登り切った一番上に本殿があるのだ。割と急な石段で、浴衣を着た幼子が登るにはしんどいだろう。両脇を古木に覆われて、夕方の光だけでは薄暗かった。外灯も申し訳程度にしか設えられていない。寄ってくる蚊を払いながら、途中で親子に道を譲ってもらい、昔祖母とこの道を登ったことを思い出しながら、本殿を目指した。

本殿の一つ手前に社務所があり、小さな休憩スペースが設けられていて、無料の冷やし飴が振る舞われていた。勧められるがままに椅子に座り、冷やし飴を飲みながら、一息ついた。社務所のある場所は高台で、もうこれ以上高い場所は本殿だけだった。森も抜けてしまったから、遮る木もなく、遠くまで街を見渡すことができた。弱い夕日が薄明るく、灰色の町を照らしていた。社務所の周りでは、地の人たちが楽しそうにお喋りをしていた。ふもとから微かにカラオケ大会の声が聞こえてくる。流行りの歌を歌うのは、まだまだ若い男の子の声だった。

冷やし飴を飲み干して、本殿に続く最後の階段を登った。参拝をしてから、もう一度暮泥む町を振り返った。雨上がりの灰色の空だった。蜩が物悲しく鳴くので、途方のない寂しさに駆られた。この町を捨てたのだなあと思った。

石段を降りて、ふもとにたどり着いたら、登り始めた時よりずっと暗くなっていた。ふもとには周りを木々で囲まれた小さな滝があり、周りには明かりもないから、神聖なような、不気味なような、水の音ばかりが暗闇に響いた。そっと近づいてみると、滝がしぶいて、脛を薄らと濡らした。足に意識が行き、いつの間にか蚊に食われていたことを知った。途端に痒みを覚えて、ガリガリと引っ掻いた。

そろそろ帰ろうと思い、参道を引き返して行った。行き道はまだ明るくて気がつかなかったが、暗い森の中に、灯明の灯りがいくつも並んでいた。灯明には「献燈」の文字と共に、奉納した者の名前がくっきりと刻まれていた。暗い境内の中で「献燈」の文字は、白い灯に照らされて、黒黒と浮かび上がっていた。

 

中学生の時、朝五時頃、自室の部屋のベランダに出て、遠くに小さく見えるビルの街並みを眺めては、遠い町に行きたいと何度願ったか知れない。その願いを叶えて、今東京にいるけれど、今でもまだ、どこか遠くへ行きたいと願っている。会社だって辞めてしまったし、二番目の会社だって、捨ててしまってどこか遠くへ行きたいなと思う。

私には、地元の神社に献灯をするような人生は到底送れない。献灯をして、自分の名前をそこに刻むなんて絶対にできない。カラオケ大会で歌ったり、自分が小さい頃頃に行ったお祭りに、今度は親となって子を連れていく人生はあるはずがない。

暗闇に浮かび上がる「献燈」の文字は、力強く美しくて、自分の人生にはない文字だった。今でも記憶にこびりついて離れない。忘れ難い記憶がまた一つ増えた。この思い出はきっといつか夢に見て、私に郷愁をもたらし、地元に戻っておいでと手招きするに違いない。そして帰るたびに、自分が捨ててきたもの、取り逃してきたものを思い出させるのだ。

優しさと冷たさ

久しぶりに日記を記す。

 

私はよく、理屈っぽいとか、合理主義的だねと言われる。他人に興味がなさそうとも言われる。

 

理屈っぽいと優しくないのか?

私は感情で物事を決めるのが苦手だ。

特に仕事においてはそうで、議論をしていて、なんだか嫌だなあと思っても、反論するだけの充分な材料がなければ、反対しない。普通そうだろうと自分では思うのだけれど、「なんか違う」「やりたくない」といって反対する人もいるので、驚く。

仕事の領域では、感情をあまり信用していなくて、筋が通っているか、論拠があるかを重要視する。たまに「理屈じゃ人は動かない」という言葉を聞くが、私は理屈がなければ絶対に動きたくない。

そういう仕事をしていると、冷たいと言われることもある。前の会社の先輩には「あなたは優しくない」と言われた。ただ、私は感情を重視して仕事をするのが優しさとは、どうにも思えなかった。

私は人事職だが、この仕事をしていると、どうしても規程で割り切れない部分は出てくる。そこで「かわいそうだから」と言って特別扱いをするのは私は好まない。(仕事柄、特別扱いの具体例が出せないので難しいが、例えば障害を持っている人のハンデを出来るだけ無くそう、というのは特別扱いではなく、会社がすべき合理的配慮だと思っている。)そもそもかわいそうと思うかどうかは人によって異なるのに、たまたま担当者がかわいそうと思ったから特別扱いをするのは、どうも腑におちない。

陳腐な言い方だが、100人いれば100通りの事情がある。その全ての人生に、事情に目を通すことは不可能だし、組織として100通りの対応をすることができるはずがない。それができないのに、たまたま目についた人にだけ「優しく」することが、他の人に説明できないことをすることが、優しさだとは思わない。

勿論仕事柄、特例を設けることは避けられないけれど、できる限り特別扱いはしない、できる限り同じ条件で扱うことこそが、不平等を生み出さない「優しさ」だと思っている。それであれば、会社に対して不満は出るかもしれないが、特別扱いされた人に対して不満は出ないのだから。胸を張って説明できないことはしないし、したくない。時が立って「なんでこんなことしてるんだっけ?」と疑問を抱き、説明がつかないことはしたくない。

感情は人を選ぶけれど、論理は差別をしない。私は論理の優しさを信じている。論理が立ち行かない領域において、合理的配慮をすればよい。

なお、私はメールや電話はできるだけ丁寧な優しい言葉で、を心がけている。論理を冷たく感じる人がいるのは事実なので、それを飲み込んでもらうために、論理は曲げず、しかしできる限り柔らかい言葉で伝える。

 

他人に興味がないことは冷たいのか?

正直、世の中の人がどれくらい他人に興味があるのか、平均がわからないので、自分が他人に興味があるのかないのかよくわからない。ただ、他人に興味がないことが、そこまで悪いことだとは思わない。

例えば同性婚夫婦別姓に反対する人がいる。私は同性愛者ではないし、苗字に興味がないから自分がどうなろうと構わないが、同性婚をしたい人がいるならできるようにすればいいし、夫婦別姓にしたい人がいるならすればいい。他人の人生の選択に対して興味がないし、そもそも口出しする権利が無い。

同性婚については、子を生まないので生産的ではないという意見もあるが、異性婚をすれば皆子を産むわけでもないし、同性婚を認めなかったからと言って、産む子の数が増えるわけでもない。また、結婚しなければ子を産めない法律などないのに、結婚と出産が固く結び付けられているのも古臭い道徳感だ。なお、私は道徳という言葉が嫌いだ。そもそも人間のために国があるわけで、国のために人間があるわけではない。勿論綺麗事ばかり言ってられないし、お金は確かに必要だが、国を栄えさせるために人間を不幸にするのは本末転倒としか言いようがない。(しかも、同性婚を認めないことによって、国が栄えるわけでもないのだし。)

夫婦別姓については家族の絆が壊れるという反論がある。では、結婚して配偶者の苗字を名乗ったら、元々同じ苗字だった家族と絆が壊れるのか。相手が苗字を変える側だとして、相手と相手の家族の絆を壊すのは構わないのか。

そもそも絆という言葉が嫌いだ。よくわからないけれどなんだかそれっぽい言葉に人生を規定されるなど忌々しい。

夫婦別姓にしたい人が別姓にするのだから、そこの家庭が「伝統的」に壊れようが関係ないのではないか。自分が夫婦同姓を望む者同士で婚姻を結び、同姓にすればいい。

 

何故そこまで他人に興味があるのか、私には分からない。他人に興味があることばかりが優しいとは思えない。他人を気にしない優しさもある。そもそも他人にそこまで踏み込む権利を持っていない。

例えば職場において、妊婦さんの仕事を手伝うとか、怪我をしている人のために扉を開けるだとか、そういうことはするように気を付けているけれど、それ以上踏み込まない。

いつ生まれるのかだとか、男の子なのか女の子かだとか、その怪我どうしたのだとか、私は聞かない。たまたま職場が一緒なだけの人間に、聞かれて嫌なこと、不愉快なこと、答えづらいことかもしれないから。でも職場だと、なかなか「答えたくないの」とは言えないだろうから。だから相手が言わない限り、私からは聞かない。知りたくても、心を許した友達でも家族でもない人間に聞く権利は無いから、聞かない。

それを冷たいと、他人に興味がないという人もいる。ただ、私にとってそれは配慮だ。伝わらないなら配慮じゃないという人もいるかもしれない。ただ、職場でたくさん話しかけてくれる人がいるけれど、私は会社であまり雑談はしたくないから、正直嬉しくない。でも相手からしたら配慮なのだろう。配慮なんてその程度のもの、つまり自己満足にすぎない。私は私の思う配慮をしているだけだ。

 

感情を軽視しているのか?

ここまで書いたが、私が感情を軽視しているかというと、それは違う。

私は感情を大事にしている。しているからこそ、公の領域に軽々しく持ち込みたくない。

自分の感情は自分だけのもので、だから論拠として信頼のおけるものではないから、仕事や議論では使いたくない。それは他人に対して不誠実であるし、自分の感情を仕事の道具にはしたくない。

議論の入り込まない私の世界では、感情は重要なものだ。早朝の空気の香りに湧き上がる感情や、思い出の花を見た時に湧き上がる懐かしさ、誰かに会いたいと思う気持ちは、到底理屈で割り切れない。感情が大事だからこそ小説を読み、歌を聞く。大事だからこそ、それを公には出来る限り持ち込まない。

 

公と私の区別をはっきりつけたいかどうかの問題なのではないかなあと思っている。