カモメノート

自由帳

駿河なる宇津の山辺のうつつにも

塾でアルバイトをしていたときの夢をみた。正確に言うと、かつてアルバイトをしていた塾で、いまアルバイトをしている夢。

 

個別指導用のプレハブの小さな建物に、ブースが八つ。今日の担当講師と生徒の名前が書かれたホワイトボード。学校にあるのと同じ、メラミン化粧板にスチールの机と椅子。講師用の控室と、トイレが一つ。教材がぎっしり詰まった棚。辞めてから一度も会ったことのない、同じアルバイトの先生たち。もう四年半以上昔の話だというのに、夢は鮮明だった。普段はすっかり忘れて生きているのに、顔も名前も鮮やかだった。どうしてだろうか、目覚めているときは、遥か昔の話のように感じるのに、四年半と言葉にすると、ほんのこの間のような気がする。

塾は19時から21時50分まで、2コマの授業をするのが常だった。その後、先生同士でミーティングをして、気になったことは共有する。それが終わったら戸締りをして、プレハブのドアの鍵を閉め、小さな車道を挟んで向かいの本館にある事務所でタイムカードを押すのだ。夢の中でもそうした。夢の中の私は、出勤時にタイムカードを機械に通し忘れたらしい。「来た時、タイムカードを通し忘れてしまって......」そう言うと、本館の先生が笑って「ペンで書いてくれたらいいよ」と言った。

事務所の中は、何も変わらなかった。事務机が五つあり、生徒が出欠簿を出すカウンターがあり、自習用の机があり、教材の閉まってある棚が三つ並んでいて、小さな給湯スペースがある。現実で、私は何回か事務の手伝いもして、給湯スペースでポットの水垢を落としたり、麦茶を作ったり、生徒が使ったプラスチック製のカラフルなカップたちを洗ったりしていた。あの水に濡れたカップのざらざらとした感覚を今でも思い出せる気がするのに、もう六年前の話なのだ。

夢の中でもなぜか胸が詰まる思いがして、タイムカードラックにまばらに差込まれたタイムカードの名前を目で追った。事務室には懐かしい先生たちの顔があったのに、でも、一番に会いたいはずの数学の先生はいなかった。私はその後すぐに、「お疲れ様でした」とだけ告げて、すこし重い曇りガラスの扉を開けて、帰ってしまったのだ。

これは現実にはない景色か、あるいはかつてどこかで見た景色の切り貼りだが、塾を後にしたら、やがて両脇を田圃に挟まれて、小さな用水路沿いに、私は歩いて帰った。そんな場所は現実にはないのに、なぜかひどく懐かしかった。夜の暗闇に、せんせんと流れる水の音と蛙の鳴き声ばかりが響く。稲はまだ葉が若く、青かった。気持ちの良い夜だった。その時ふと、私は不思議に思った。「あれ、塾はもう閉業して、なくなってしまったんじゃなかったっけ?」「ああそうか、閉業したけれど、また始めたんだった」でもそこで、夢を見ながら、これは夢なのだと分かってしまった。その時自然にすうっと目が覚めた。

 

私は昔の話ばかりをこうして夢に思い出しては日記に書くけれど、それを虚しく悲しく思うこともある。過ぎたことばかりを大事にして、今感じていることは何も書けない。何も思わない。多分頭がすこし鈍いのだろう。今起きていることを、美しく思い返すことができなくて、上手く大事にできなくて、過ぎてから本当は大事だったことに気付いて、もっと上手くできればよかったのに、と思う。その時には、大事にしたかったものも、人も、もう手元にはない。だからせめて、書き残しておきたい。もう現実には手に入らないものだから、いつかきっと夢にも見なくなって、忘れてしまう。大伴旅人は「現には逢ふよしも無し ぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ」と詠んだけれど、本当に会いたい人には、もう夢の中でさえ会えない。夢で会えないなら、会えるのはもう頭の中だけだ。だからこうして言葉にして残して、忘れないようにしていたい。

本当に、昔を懐かしく思うほど、和歌ばかりが頭に過ぎる。「駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」。「いかにせむ山の青葉になるままに 遠ざかりゆく花の姿を」。和歌を読んでいる時は決して寂しくない。だから、私に和歌を教えてくれた古典の先生に感謝している。そして、その先生に引き合わせてくれた数学の先生に、誰よりも。

早く春日大社に行きたい。そして祈りたい。ありがとうと伝えたい。でも春日大社に行くと、いつも寂しい。懐かしいものは全て関西に残してきたから、関西にいると胸が苦しい。だから私は西へ帰らないのかも知れない。寂しいから、ずっと和歌集を読んで慰められていたい。