カモメノート

自由帳

好きな音楽:ドリーム・ジプシー

ビル・エヴァンスのアルバム「undercurrent」のなかに「dream gypsy」という曲がある。


ポロンポロンと溢れるような音から始まって、底の方で、低いギターがかきならされる。まるでオフィーリアのようなアルバムのジャケットに思考を引きずられているのだろうが、物悲しく美しいピアノとギターの音が絡まりあい、水の中に静かに沈んでいくような思いがする。「夢うつつのジプシー」、今はジプシーとは言ってはいけないかもしれないけれど、それくらいの意味だろうが、いったいどれほど寂しい夢を見ているのだろうかと思う。静かな水の中に深く沈んでいって、おぼろげな月の光しか見えていないような曲。夢に囚われてしっかり立てず、頼りなくて、足を縺れさせて歩いているような曲。曲調はさることながら、タイトルはその曲へのイメージを規定する。夢という言葉の持つ、儚さやあやふやさと、ジプシーという言葉の持つ、異国的で、一か所に留まらず、なにものにも束縛されないような不安定さが絡まりあって存在している。

ビル・エヴァンスアメリカ生まれだが、私は修学旅行で初めてアメリカに行った時、その大地の茫洋としたさまに、なんて心許なくて、寂しい国なんだろうと感じた。明るく優しいアメリカ人に出会い、シカゴの大都会も見たはずだけれども、それよりも心に強く残っているのは、バスから見た、煤けた土色をした、埃っぽい大地だった。道すがら、給油と休憩のため立ち寄った田舎のガソリンスタンドには小さな商店が設えられて、小太りのおじさんが、修学旅行生の私たちを少し珍しそうに眺めていた。おじさんは、チェックのシャツを着ていた。そこだけ記憶があまりにも鮮明なので、かえって夢だったのではないかと思うほどだ。アメリカという国の、知らない一人の人間の、恐らく短くないだろう人生を思うとたまらない気持ちがする。誰かのお腹から生まれて、幸せか不幸かにかかわらず育ち、大人になり、毎日を過ごした人間と、知らない国ですれ違った事実が不思議で、まるで夢を見ているようだと思う。

旅をしているとそういう瞬間に何度も巡り合うけれど、旅中で出会ったものを忘れても、知らない土地を見た時にこみ上げる悲しさや、知らない誰かに出会ったときの胸を締め付ける苦しさを忘れることはできない。だから私にとってアメリカは、いつまで経っても寂しい国であり続けると思う。それは決してその国が嫌いだとか、不愉快だという意味ではない。ドリーム・ジプシーを聴いている時と同じで、自然や大きなうねりの中での人生のままならなさを嘆きながら、強く惹きつけられている。

ところで、私にビル・エヴァンスを教えたのは、高校の演劇部の先輩だった。教えたと言っても、その先輩は無口だったし、仲が良いわけでもなかったので、話の中で教えられたわけではない。喫茶店が舞台の演劇で、バックミュージックとしてビル・エヴァンスの弾く「autumn leaves」を用意したのが先輩だった。私は音響役で、その曲を何度も繰り返し再生させた。先輩の声も性格も思い出せないが、重たげな前髪と黒い縁の眼鏡がおぼろげに記憶の片隅にある。

旅行にせよ、演劇部にせよ、仲良く話したはずの人のことはすっかり忘れてしまいながら、会話をろくに交わさずに別れた人のほうが、かえって強く記憶に刻まれたりする。そして後になって昔を思い返しては、あれは本当に現実だったのか?夢だったのではないかと思わせる。ドリーム・ジプシーは、そういった、昔の曖昧な夢や清潔な寂しさを思い起こさせる曲なのだ。