カモメノート

自由帳

優しさと冷たさ

久しぶりに日記を記す。

 

私はよく、理屈っぽいとか、合理主義的だねと言われる。他人に興味がなさそうとも言われる。

 

理屈っぽいと優しくないのか?

私は感情で物事を決めるのが苦手だ。

特に仕事においてはそうで、議論をしていて、なんだか嫌だなあと思っても、反論するだけの充分な材料がなければ、反対しない。普通そうだろうと自分では思うのだけれど、「なんか違う」「やりたくない」といって反対する人もいるので、驚く。

仕事の領域では、感情をあまり信用していなくて、筋が通っているか、論拠があるかを重要視する。たまに「理屈じゃ人は動かない」という言葉を聞くが、私は理屈がなければ絶対に動きたくない。

そういう仕事をしていると、冷たいと言われることもある。前の会社の先輩には「あなたは優しくない」と言われた。ただ、私は感情を重視して仕事をするのが優しさとは、どうにも思えなかった。

私は人事職だが、この仕事をしていると、どうしても規程で割り切れない部分は出てくる。そこで「かわいそうだから」と言って特別扱いをするのは私は好まない。(仕事柄、特別扱いの具体例が出せないので難しいが、例えば障害を持っている人のハンデを出来るだけ無くそう、というのは特別扱いではなく、会社がすべき合理的配慮だと思っている。)そもそもかわいそうと思うかどうかは人によって異なるのに、たまたま担当者がかわいそうと思ったから特別扱いをするのは、どうも腑におちない。

陳腐な言い方だが、100人いれば100通りの事情がある。その全ての人生に、事情に目を通すことは不可能だし、組織として100通りの対応をすることができるはずがない。それができないのに、たまたま目についた人にだけ「優しく」することが、他の人に説明できないことをすることが、優しさだとは思わない。

勿論仕事柄、特例を設けることは避けられないけれど、できる限り特別扱いはしない、できる限り同じ条件で扱うことこそが、不平等を生み出さない「優しさ」だと思っている。それであれば、会社に対して不満は出るかもしれないが、特別扱いされた人に対して不満は出ないのだから。胸を張って説明できないことはしないし、したくない。時が立って「なんでこんなことしてるんだっけ?」と疑問を抱き、説明がつかないことはしたくない。

感情は人を選ぶけれど、論理は差別をしない。私は論理の優しさを信じている。論理が立ち行かない領域において、合理的配慮をすればよい。

なお、私はメールや電話はできるだけ丁寧な優しい言葉で、を心がけている。論理を冷たく感じる人がいるのは事実なので、それを飲み込んでもらうために、論理は曲げず、しかしできる限り柔らかい言葉で伝える。

 

他人に興味がないことは冷たいのか?

正直、世の中の人がどれくらい他人に興味があるのか、平均がわからないので、自分が他人に興味があるのかないのかよくわからない。ただ、他人に興味がないことが、そこまで悪いことだとは思わない。

例えば同性婚夫婦別姓に反対する人がいる。私は同性愛者ではないし、苗字に興味がないから自分がどうなろうと構わないが、同性婚をしたい人がいるならできるようにすればいいし、夫婦別姓にしたい人がいるならすればいい。他人の人生の選択に対して興味がないし、そもそも口出しする権利が無い。

同性婚については、子を生まないので生産的ではないという意見もあるが、異性婚をすれば皆子を産むわけでもないし、同性婚を認めなかったからと言って、産む子の数が増えるわけでもない。また、結婚しなければ子を産めない法律などないのに、結婚と出産が固く結び付けられているのも古臭い道徳感だ。なお、私は道徳という言葉が嫌いだ。そもそも人間のために国があるわけで、国のために人間があるわけではない。勿論綺麗事ばかり言ってられないし、お金は確かに必要だが、国を栄えさせるために人間を不幸にするのは本末転倒としか言いようがない。(しかも、同性婚を認めないことによって、国が栄えるわけでもないのだし。)

夫婦別姓については家族の絆が壊れるという反論がある。では、結婚して配偶者の苗字を名乗ったら、元々同じ苗字だった家族と絆が壊れるのか。相手が苗字を変える側だとして、相手と相手の家族の絆を壊すのは構わないのか。

そもそも絆という言葉が嫌いだ。よくわからないけれどなんだかそれっぽい言葉に人生を規定されるなど忌々しい。

夫婦別姓にしたい人が別姓にするのだから、そこの家庭が「伝統的」に壊れようが関係ないのではないか。自分が夫婦同姓を望む者同士で婚姻を結び、同姓にすればいい。

 

何故そこまで他人に興味があるのか、私には分からない。他人に興味があることばかりが優しいとは思えない。他人を気にしない優しさもある。そもそも他人にそこまで踏み込む権利を持っていない。

例えば職場において、妊婦さんの仕事を手伝うとか、怪我をしている人のために扉を開けるだとか、そういうことはするように気を付けているけれど、それ以上踏み込まない。

いつ生まれるのかだとか、男の子なのか女の子かだとか、その怪我どうしたのだとか、私は聞かない。たまたま職場が一緒なだけの人間に、聞かれて嫌なこと、不愉快なこと、答えづらいことかもしれないから。でも職場だと、なかなか「答えたくないの」とは言えないだろうから。だから相手が言わない限り、私からは聞かない。知りたくても、心を許した友達でも家族でもない人間に聞く権利は無いから、聞かない。

それを冷たいと、他人に興味がないという人もいる。ただ、私にとってそれは配慮だ。伝わらないなら配慮じゃないという人もいるかもしれない。ただ、職場でたくさん話しかけてくれる人がいるけれど、私は会社であまり雑談はしたくないから、正直嬉しくない。でも相手からしたら配慮なのだろう。配慮なんてその程度のもの、つまり自己満足にすぎない。私は私の思う配慮をしているだけだ。

 

感情を軽視しているのか?

ここまで書いたが、私が感情を軽視しているかというと、それは違う。

私は感情を大事にしている。しているからこそ、公の領域に軽々しく持ち込みたくない。

自分の感情は自分だけのもので、だから論拠として信頼のおけるものではないから、仕事や議論では使いたくない。それは他人に対して不誠実であるし、自分の感情を仕事の道具にはしたくない。

議論の入り込まない私の世界では、感情は重要なものだ。早朝の空気の香りに湧き上がる感情や、思い出の花を見た時に湧き上がる懐かしさ、誰かに会いたいと思う気持ちは、到底理屈で割り切れない。感情が大事だからこそ小説を読み、歌を聞く。大事だからこそ、それを公には出来る限り持ち込まない。

 

公と私の区別をはっきりつけたいかどうかの問題なのではないかなあと思っている。