カモメノート

自由帳

地獄と呪い

小学校と中学校が大嫌いだった。

すごく荒れていたから。いじめもたくさんあった。普通のいい子が急にいじめられることは勿論、今日いじめていた子が、次の日からいじめられることもあった。

友達が少なくて(仲の良い子が転校したり、不登校になった)、みんなと同じものを好きになれなくて、スポーツがへたくそな私は勿論いじめられた。下足を落ち葉の詰まったゴミ袋に隠されたし、理科の実験は仲間外れにされた。体育の授業は派手な女の子たちだけじゃなくて、先生にも笑われた。そう、先生は気が強い生徒に逆らわなかった。スカートを折って短くしている生徒には注意をしなかったのに、成長期で十五センチ背が伸びて、スカートが短くなった私は注意された。あの頃、先生という生き物が大嫌いだった。全く信用していなかった。この世のほとんど全てを憎んでいたし、早く死にたいと毎日願っていた。さながら地獄にいる気分だった。

そんな当時、私は英語が好きだった。より正確に言うと、英文法が好きだった。中学校三年生に差し掛かった頃か、進路を考えなくてはならない時期に、確か母が教えてくれたのだが、私は「英語科」の存在を知った。高校に、普通科や英語科や理数科といった種別があることを、それまで知らなかった。母は私が中学校を嫌いなことをよく知っていたから、英語科のなかでも、絶対に同じ中学校の子が進まないであろう学校を勧めてくれた。実際に学校見学にも行き、私の希望はその英語科に決まった。

しかし非常に残念なことに、私は数学が苦手だった。信じられないほどの成績で、偏差値で言うと数学は35しかなかった。だから皆口を揃えて言った、「あなたの成績でその高校は難しい」と。公立だから、数学の成績も人並み程度には必要だったのだ。さらに言うと、私は学校を休みがちであまり内申も良くなかった。当時大阪府相対評価を採用していたので、余計に数値に響いた。

そんな私を見捨てなかった数少ない人が、当時通っていた塾の先生だった。確か当時23歳だと言っていたが、自分が23のときを思い返すと、信じられないほど大人だったと思う。数学の先生だった。数学が大嫌いな私の面倒を見てくれた。塾の授業は19時から20時半までだったが、「学校が終わったらすぐに自習室に来て勉強しよう。残れる日は22時まで残って勉強しよう」と言ってくれた。数学が苦手で苦手でたまらない私は、それでも自習室に通い、数学の問題集を解いた。どうしてもその高校へ行きたかった。先生は、授業の合間に様子を見に来てくれて、勿論授業も受け持ってくれて、分からないところをたくさん教えてくれた。

ゆっくりしか上がらない成績だったが、模試の偏差値がちょっとずつ上がるたび、先生は喜んでくれた。「この調子で頑張ろう」と。思い返すと、先生にダメ出しをされたことがない。これじゃあダメだと言われたことがない。忘れているだけなのだろうか?でも、記憶に残っているのは、問題が解けなかったときに苦笑いをしながら「もう一回解いてみ!」と言ってはげます姿と、問題が解けたときの笑顔ばかりなのだ。

中学校三年生の春、夏、秋、冬と勉強に注ぎ込んだ。夏休みは塾に入り浸りだった。シャープペンシルの芯がたくさん折れた。英語のテストに合格すると、成績表に赤いシールを貼ってくれた。数学は、一年生のテキストから順番に解いていった。正負の数、因数分解二次方程式、証明、平方根。冬休みも同じように勉強した。中学校は相変わらず地獄だったが、地獄から逃れるために勉強をした。苦手な勉強をするのは辛かったが、学校にいるときよりずっと自由だった。

年が明けて、2月になると、本試験がはじまる。今でこそ私は試験直前でも全く緊張しない図太さを持っているのだが、流石にはじめての受験の前は緊張していたのかもしれない。受験前日も塾で勉強をしていた。寒い日だった。塾が閉まる時間になり、私は勉強道具を仕舞って帰ろうとした。生徒たちがさよならを言うと、先生たちはがんばれ、と返してくれていた。

いよいよ帰るそのとき、数学の先生が「ちょっと待って」と呼び止めた。先生は私に小さなお守りを差し出した。白地に白い糸で藤の花が刺繍されている。真ん中には金糸で「勝守」と織り込まれていた。春日大社のお守りだった。「くれるんですか?」と聞くと、先生はやっぱり笑っていて、「大丈夫。お守りに呪いかけといたから。がんばれ」と言った。辛いことがあまりに多くて、ひねくれていた私のために、きっと呪いだと言ったのだ。私はお礼を言って帰った。家に帰る道すがら、お守りを何度も見つめた。

試験の日のことはあまり覚えていない。当時まだ古典を好きでなかったので、国語が難しかったことは記憶に残っている。そして半月ほどした3月3日、合格発表の日、合格者番号を掲げた掲示板に、自分の受験番号を見つけた。私より先にお母さんが見つけて、私より喜んでいた。これは入学後に成績開示で知ったことだが、私の数学の点数は合格者の中でも上位だった。他の誰でもない、先生のおかげだ。

本当は、すぐに数学の先生に伝えなければいけないはずだった。一年間のなかで、誰より一番にお世話になったのだから。しかし、これが最後だと思うと、なかなか塾に行けなかった。そのうち塾の事務から電話が来て、合格しましたかと聞かれた。はい、と答えて電話を切った。

それから数日後、やっぱり直接言わなくてはと思い、塾へ行き、数学の先生に報告した。「聞いたよ。おめでとう。やったやん!」と喜んでくれた。いつもの優しい笑顔を浮かべていた。そして「俺、今月で最後やねん。今までありがとう。高校は絶対に楽しいから。大丈夫」と言った。泣きたくなったけれど、我慢して、「本当に今までありがとうございました」と告げて、別れた。帰りは塾の送迎バスに乗せてもらい、お守りを見つめて泣いた。

 

先生の言うとおり、高校はとても楽しくて、充実した三年間だった。好きな英語を勉強し、古典を好きになり、茶道を楽しんだ。今でも高校の子とは仲が良く、機会があれば会って遊ぶ。地獄から抜け出させてくれたのは、数学の先生のおかげなのだ。先生が「この成績でその高校は無理だよ」と一度も言わないで、「数学やるで!」と言い続けてくれたから、私はがむしゃらに頑張れた。自分が行きたい場所に行くことができた。

それでも辛い時や、大学受験のとき、あのお守りに沢山祈った。うまくいきますようにと、何度も願った。白かったお守りは、手垢で黒く汚れ、糸がほつれた。あのお守りは、私の宝物だ。

大学に入り、私はその塾でアルバイトをした。数学は教えられなかったが、英語と古典を教えた。先生みたいにうまくできなかったけれど、少しでも誰かの役に立てていたなら嬉しい。その当時、他の先生から聞いたが、先生はあの後、中学校の先生になったらしい。「高校すごく楽しかったです」と言いたかったけれど、もう二度と会うことはないだろう。

だから私は年に一度は春日大社に行って、お祈りをしている。どうか先生にありがとうと伝えて欲しいと。あの呪いがあったから、私は今自由に生きることができて、救われて、ほんとうに感謝しているのだと。先生が今どこで何をしているか知る由もないけれど、どこかで笑って生きていて欲しい。そして、今もきっと誰かを元気にしているのだと、信じている。

コンサートのはなし

しばしば、好きな歌手はいる?と聞かれることがあるが、答え方にすごく悩む。

aikoは好きだけれど、新曲が出たら絶対に聴くわけじゃない。曲も全体の5分の2〜3くらいしか聴いていないと思う。ましてや、ライブに行ったことなど一度もない。ライブの抽選が面倒くさいから、申し込んだことすらない。

友達が好きな歌手の話をする時、かならずライブに申し込み、関西でも名古屋でも埼玉でもどこでも行くのを見ると、ライブの申し込みすら面倒くさがる身分で、「aikoがすきです」とはなかなかいえない。

私はものぐさの権化みたいな人間だから、ライブに申し込むのも、振り込みも、当日電車に乗るのも、人混みの会場も、並ぶであろうお手洗いも、混雑してなかなか駅まで辿り着けない帰り道も、想像するだけで辛い。

そんな私でもたまに行くのが、クラシックのコンサートだ。抽選になることはまずないし、aikoのライブと比べたらはるかに混まない。席によっては金額も手頃だ。有名な曲であれば聴いていて楽しい。知らない曲でも、いいな!と思える曲だとあっという間に時間が過ぎる。あんまり好きじゃないかも...という曲のときは、演奏者を見る。私は楽器が弾けないので、謎の楽器たち(多分有名だけれど、私は名前を知らない)を見ているだけでも面白い。シンバルが今叩くぞ!といわんばかりに構えているときは、ドキドキする。お手洗いは若干混むけれど、まあ休日の新宿みたいなものだと思えば問題ない。

コンサートに行くようになったきっかけは、2016年にウラディーミル・アシュケナージとヴォフカ・アシュケナージの日本公演に行ったことだ。スメタナモルダウが好きで、生で聴きたいなと思っていたところ、たまたまその日本公演のプログラムにモルダウが組み込まれていたのだ。正直もう4年も経つので、モルダウのことはあまり覚えていない。むしろ、グリンカの「幻想的ワルツ」という曲の方が頭に残っている。導入は力強く厳かで、中盤から軽やかな響きに転じる。私は単純なので、聴いているとロシアへいきたくなる。

Waltz Fantasy

Waltz Fantasy

 

それから、いくつかコンサートへ行った。聴いて良かったなと思ったのがヴィヴァルディの四季で、「春」の第一楽章こそ有名で聴いたことがあるが、その後冬まで通して聴いたことはなかった。機会がないとなかなか聴かないものだ。「これが夏?なんだか暗くて冬みたい」だとか「秋の第一楽章が楽しそうで好きだな」とか、勝手な感想を抱いて楽しんでいる。

ホルストの「惑星」も、通しで聞いて楽しかった。たまたま舞台の目の前だったので、近くで聴く「火星」は迫力があったし、楽器の弾き方を見るのも楽しかった。「海王星」は女声合唱の場面があるのだが、不気味で不思議な響きだった。

 

今年はまだコンサートへ行けていない。もともと3月に、プログラムにモルダウが組み込まれたコンサートへ行く予定が、コロナのために中止になってしまった。コロナがいなくなってくれた時には、今度こそ聴きに行きたい。

 

テレビが飾りになっている話

友達が一人暮らしを始めた。人生ではじめての一人暮らしだそうだ。部屋を自分の選んだ家具で飾り、とても楽しそうにしていた。その子からメッセージが来て、「一人でいると、テレビつけないとすごくシーンとするね」と言っていた。それで思い出したのだが、大学時代に一人暮らしだった友達も「部屋で一人でいると、静かすぎる。だからずっとテレビをつけている」と言っていた。

 

わたしは基本テレビをつけない。今欠かさず観ている番組は「麒麟がくる」だけで、それを観ている約45分間が、一週間で唯一テレビを観る時間だ。「麒麟がくる」はとても面白くて大好きでハマっているのだが、それでも番組が始まる5分前になると、「ああ、テレビをつけなきゃ」と思い、憂鬱になる。番組が終わったらすぐに電源をおとし、コンセントを抜く。

麒麟がくる」が始まる前にテレビを観たのは、2019/12/21に「悪魔の手毬唄」を観た時で、その前は台風19号のきた2019/10/6に気象情報を得るために観た。テレビを観なさすぎて、観たときを覚えてしまうくらいには、観ない。昔からテレビは積極的に観ない方で、小学生の頃はそれなりにドラマを観ていた気がするが、いつの間にか全く観なくなった。だから、わたしが毎週欠かさず「麒麟がくる」を観ていることはかなり異常なことである。染谷将太さんが好きです。

そもそも初めて一人暮らしを始めたとき、わたしはテレビを買わなかった。必要だと思わなかったからだ。友達を呼んだ時に、テレビがないなんて、と割とドン引きされて、話が尽きた時にシーンとすることが分かり、お客様用布団くらいの気持ちでテレビを用意した。しかも、たまたまテレビを捨てる予定の知り合いがいたため、その人から譲り受けただけで、もし捨てられる予定のテレビがなければ、面倒くさがって買わなかったかもしれない。

 

友達はシーンとしているのを寂しいとか、落ち着かないというが、わたしは音がほとんどしないと、かえって落ち着くし、安らぐ。一歩外に出れば、音がない場所に行く方が難しいくらい音にあふれていて、疲れてしまう。好きな音もあるけれど、好き嫌いではなく、疲れるのだ。部屋で音楽は聴くが、基本ボーカルのない曲しか聴かない。わたしはどうも、知らない人の声が特に苦手らしい。唯一安らげる家の中で、人の声が満ち満ちていると、気が休まらない。

また、割とマイペースな性格なので、自分のペースで観られないテレビや動画は苦手だ。YouTubeであれば途中で止めることもできるが、そうはいってもどうも面倒臭い。本であれば読むスピードを調整できるが、テレビだとそうもいかない。観ている間、受け身でいることを求められる媒体なので、自由にできないことが煩わしい。

 

そうしてテレビを観ないでいるので、今流行りの俳優もドラマもスポーツの動向も知らない非常識人ができあがる。なお、スポーツには関心がないので、新聞のスポーツ欄は一切観ない。だからスポーツの情報が入ってくることはまずない。オリンピックなんてもってのほかだ。日本人が何枚メダルを取ったとか、次は東京オリンピックだとか、そういうことに興味がない。

しかしテレビは会話のきっかけにちょうどいいツールなので、初対面の人とはよく会話にのぼる。初めて出会った人からテレビの話をされる時が苦痛だ。テレビを観ていないと言われたら、じゃあ何をしているの?と言われるが、一日働いた日なんて、帰れば八時九時になるのだから、ご飯をたべ、お風呂に入り、洗濯をまわして、寝るのでじゅうぶんだ。空き時間があれば本を読んだり、お茶を飲んだり、勉強したりするくらいで、そこにテレビがあるかないかの違いじゃないか?「じゃあ、休みの日は何しているの?」と聞かれ、「お散歩です」と答えて「おばあちゃんみたいだね」と言われてから、その手の質問に答えるのは面倒臭くなった。

 

誰かといなくて寂しいとあまり思わない。誰かの声が聞こえなくて落ち着かないなんて、もっと思わない。そう言うとまるで人間嫌いの人でなしのようだが、そうではない。人間嫌いだったら、本なんて読まないだろうし、友達と会ったり話したりしない。ただそれより少しだけ、一人でいたり、何も聞こえない場所でいることが好きなだけなのだ。

幸せな絵画たち

印象派の絵が好きだ。展覧会があれば必ず観に行くし、部屋にはポストカードを飾っている。

例えば、ルノワールの絵は幸福に満ちている。私が寡聞にして知らないだけかもしれないが、不幸そうな絵は見たことがない気がする。印象派特有の明るい光、薔薇色の頬、柔らかな髪、可愛らしいドレス。ルノワールの絵は押し付けがましくなく、思想を強要せず、知識を必要としない。

勿論ルノワールをはじめとした印象派の画家たちは、新しい表現に挑戦し続けた芸術家であり、それぞれ思想があったに違いないし、知識があればより楽しめるだろう。それでも、ギリシア神話キリスト教の教義の深い知識を持たずとも、楽しむことができる。

ボッティチェリの絵は知識がなければ謎の絵だが、ルノワールの絵は万人に開かれている。時代によって絵の持つ価値も、画家のおかれている立場も変わるので、どちらが良いとか悪いとかではなく、現代人が鑑賞するにあたっては、単に好みの問題だと思う。

私は万人に開かれた絵が好きだ。日常の美しさや、何でもない幸福を描いたルノワールの絵が好きだ。難しいことを考えたくないだけだろうと言われてしまってはそれまでだが、前提知識が充分でないままアレゴリーに満ちた絵を鑑賞すると、なんだかどっと疲れてしまう。元々絵を依頼していた貴族たちにとっては、彼らの教養をもって読み解けたのかもしれないが、残念ながら私は違う。そして教養を身につけてまで絵を読み解きたいという情熱が、まだ生じていない。

もう一つは、やはり光の表現の違い。元々絵画が室内で描かざるをえなかったことや、神話や古代(聖書の時代)を描いていること、画家が絵画に求めるものが異なることを思うと当たり前なのであろうが、印象派の光の煌めきの美しさを思うと、やはり後者のほうが好きだ。

 

なお、印象派で一番好きなのはモネなのだが、モネを超えて好きな画家が、バルビゾン派カミーユ・コローである。風景画が有名だが、薄靄がかった空の色、淡く滲むような葉、銀色の水面の表現が幻想的で、夢の中にいるような、浮世離れした美しさがある。そして、表情こそ見えないが、幸福そうな人々の姿が描かれている。

昔、パリへ旅行に行った時、ルーブル美術館でコローの名作「モルトフォンテーヌの思い出」を観たが、あの感動は忘れられない。途方もなく広いからというのもあるだろうが、日本の美術館のように混雑していないので、絵の前に張り付いて、食い入るようにながめた。

そのあと、バルビゾン派の名前の由来であるバルビゾン村にも行ったのだが、それが観光客向けに作られているのだとしても、のどかで暖かかくて、こういう場所で朝目覚めて、夜眠れたら素晴らしいと思えるような場所だった。

幸福な絵と出会えたとき、生きていてよかったな、と感じる。そして、描かれた人たちの人生を思い、描かれた瞬間の幸福を思うと、なんだか泣きそうになる。描いた人も描かれた人も、今はもう死んでしまっていないのに、昔確かに生きていて、幸せだった瞬間があって、それが絵画に閉じ込められて、未来永劫残っていくと思うと、人生はなんて不思議なんだろうと思うのだ。

そういう幸福な絵と出会うことはそう多くないのだけれど、そういう絵に出会いたくて、絵を見に行くのはやめられない。

好きな季節は夏です

和歌で好まれるのは、春か秋だ。春秋の争いという言葉があるくらい、春と秋の人気は高い。次に来るのが冬で、夏は一番人気がない。

不勉強ながら理由は分からないが、あの夏の京都で、現代のように涼を取る手段がたくさんあるわけでもないことを考えると、歌を詠む気になれない気持ちになるような気はする。

しかし、私が好きなのは夏。夏が一番好きだ。単に過ごしやすさで言えば、それは春か秋だろうが、しかし、概念的な、イメージ的な意味で好きな季節は夏なのだ。

春は花が咲いて日差しも麗かで素晴らしいが、少し明るすぎる。出会いと別れの季節なので、ふと一抹の寂しさを感じたりするが、明るさがベースの寂しさなのだ。

秋は夏の次に好きだ。赤く華やかに染まる紅葉も、じきに冬枯れすると思うと、どこか人生の儚さを思わせる。

冬は一番興味がない。雪の降らない大阪に生まれ育つと、あまり冬ならではのイメージが湧かない気がする。私が鈍いだけかもしれないが。誕生日プレゼントにお年玉、お父さんが持って帰るバレンタインチョコレートといった実益を兼ねたイベントしか記憶に残っていない。そもそも寒いのが嫌いなので、いいイメージを抱きづらいのはある。あえていうなら、年越し前の浮き立つような気持ちくらいが特別かもしれない。

夏の好きなところは、夏が様々な顔を持つ(と、私には思われる)からだ。私は夏の匂いが好きだ。空や光も美しい。早朝五時ごろのさっぱりと清潔な朝焼け、昼下がりのの眩い明るさ、午後の入道雲とにわか雨、夕方になって日が沈んでいく西の空、昼間とは打って変わって静まり返った夜。緑が生い茂り、かしましく蝉が鳴き、底抜けに太陽が明るい季節なのに、どこか暗さや寂しさが漂っている。それは夏休みという一年で一番楽しい時間のなかに、原爆投下の日と終戦の日があることが一因である気もする。

 

新古今和歌集に、次のような歌がある。

 

秋ちかきけしきの森になく蝉の涙の露や下葉そむらん

 

夏の歌だ。蝉は夏限りで死ぬ。その蝉の涙が葉は色づかせるのだろうか、と言い、鮮やかな紅葉を連想させる。だからといって、美しい秋の訪れをただひたすらに楽しみにしている歌ではなくて、陰りがある歌だ。

夏、下鴨神社境内の糺の森を歩くとき、この歌を思い出す。けしきの森は九州の方の歌枕なので、糺の森は全く関係ないのだが、私にとってはあの森そのもののような歌だ。もの悲しく鳴く蜩の声と、夏独特の光の差し方、夏至を過ぎて少しずつ短くなっていく日、ふと感じる秋の風。そうした記憶をはっと呼び覚ますような歌で、新古今和歌集の中でもいっとう好きな歌なのだ。

 

新古今和歌集は本当に面白いので、それぞれの季節の私の好きな歌だけでも読んでみてほしい。

 

青柳のいとに玉ぬく白つゆの知らずいく世の春か經ぬらむ

露すがる庭のたまざさうち靡きひとむら過ぎぬ夕立の雲

ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月かげ

夢かよふ道さへ絶えぬくれたけの伏見の里の雪のしたをれ

絵画と写真の境目

絵が好きなので、よく展覧会に行く。ハマスホイ展に行きたかったのだが、コロナの影響で会期中に閉幕となり、行けずじまいになったことが悔やまれる。関西で開いてくれればよかったのだが、次の展示は山口県だそうで、流石に遠い。本当に最近はなかなか絵を見ることができない。

代わりに、Twitterで写真を見る機会が増えた。Twitterにはプロアマ問わず(というか、プロとアマの境目がよく分からない)たくさんの写真家の方がいて、素敵な写真が山ほど見られる。風景写真も人物写真も好きで、よく見る。そうして写真を眺めていると、絵と写真って、何が違うのだろう?と思うときがある。

写真がない時代、絵は芸術であるだけではなく、記録としての一面もあっただろう。しかし、写真が誕生して、絵の価値は変わったのではないかと思う。単なる記録という点で見れば、恐らく写真の方が優秀だ。絵は描き手の技術の良し悪しがあるし、何よりそこに依頼主や描き手の希望・解釈が入り込む。写真も、何に焦点を当てるのか、何を切り捨てるのかという取捨選択はしているが、絵画ほど自由気ままにはいかない。あるものを変えてから写すことはできても、無いものは写せない。

写真ができたことで、写真は真実の記録に専念し、絵画は芸術に専念することができるようになっただろう。

しかし写真もだんだん進化して、加工ができるようになっていく。現実の写し鏡としてではなく、ある特定のものをくっきりと写したり、フィルターをかけて雰囲気を変えたり。技術を駆使すれば、写っているものを消すことすらできる。そう考えると、Twitterの写真たちは記録ではなく、むしろ絵画のようだ。題材を撮り、不要なものは消し、自分の望む色に置き換える。

記録としての価値をもって生まれた写真が、記録としての側面をなくしたら、それはいったい何になるのだろう?そして、写真が絵画化する中で、本来の絵画の立場はどうなるのだろう?二つの境目は、絶対にここが違うと言える何かは、何だろう?と、不思議に思うのだ。

 

残念ながら私は芸術にかなり疎く、学術的なことは全く分からないので、この問いに対する答えがあるわけではない。

昨日書いた日記にしろ、この日記にしろ、結局疑問に対する答えは出ていないのだ。学ぶことは人生を豊かにするし、学ばずに物を考えるのは難しい。そして、学ばないうちにこうして日記に記すのは、なんだかとても無責任な気もする。日記を始めてから、書くということは、とても難しいことだと感じている。

ら抜き言葉に思うこと

ら抜き言葉がだめ」というのがよくわからない。(私は文法学を学んだわけではないので、これから書くことはすべて憶測にすぎないのだけれど)

 

言葉は生きていて、変わりゆくものである。

元々「おぼろげなり」という言葉は、「普通だ、並大抵だ」という意味だった。背後に否定語を伴うことで「並外れた、格別な」という意味をもたせていた。それが次第に「おぼろげなり」そのものが「並外れた、格別な」という意味を持つようになった。「おぼろげならず」と言うと長いから短くなったのか、誤用したものが定着したのかは分からないが、何はともあれ、真逆の意味を持つに至った。

また、そもそも言葉は音が先にあり、文字は後である。であれば、人間が発音がしやすいように変わるものであるはずだ。音便などはまさしくそれで、例えば「飛んで」は文法的には「飛びて」が正確なはずだが、読みづらいので撥音便化している。でも、「飛んで、なんて誤用だ」とは誰も言わないだろう。それ程に規則性を持って定着しているから、音便という学術的名称を得て、人々に認められている。

ら抜き言葉」の話だが、例えば「見られる」を「見れる」というのは、前者が発音しづらいのも「ら」が抜かれる理由のひとつだろうが、もう一つは受け身や尊敬語と区別しづらいからだと思う。受け身や尊敬語として使うとき、「ら」は抜かない。可能の意味で使うときに「ら」を抜くのだ。

人々が話しやすい、分かりやすいように変わっていった結果が「ら抜き言葉」であるなら、それが文法的に間違っているというのは、後から決められたルールがありのままの自然を縛り付けているようで、どうも好きになれないのだ。(とはいえ、私は「ら」がある方が目で見たときに美しい気がして、個人的には好きである)

 

言葉は生きていて、常に変わっていくし、新しい言葉が生まれていく。最近で言うと「エモい」もそうで、今まで名前の無かった感情に言葉をつけることで、お互いにその感情を共有しあえるようになった。そうやって色んな感情を発見して、形にできるから言葉は面白い。好きな言葉ばかりではないけれど、たくさんの言葉を知れたらうれしいし、「エモい」のような新しい言葉が生まれる瞬間をまた見たいなと思っている。