カモメノート

自由帳

絵画と写真の境目

絵が好きなので、よく展覧会に行く。ハマスホイ展に行きたかったのだが、コロナの影響で会期中に閉幕となり、行けずじまいになったことが悔やまれる。関西で開いてくれればよかったのだが、次の展示は山口県だそうで、流石に遠い。本当に最近はなかなか絵を見ることができない。

代わりに、Twitterで写真を見る機会が増えた。Twitterにはプロアマ問わず(というか、プロとアマの境目がよく分からない)たくさんの写真家の方がいて、素敵な写真が山ほど見られる。風景写真も人物写真も好きで、よく見る。そうして写真を眺めていると、絵と写真って、何が違うのだろう?と思うときがある。

写真がない時代、絵は芸術であるだけではなく、記録としての一面もあっただろう。しかし、写真が誕生して、絵の価値は変わったのではないかと思う。単なる記録という点で見れば、恐らく写真の方が優秀だ。絵は描き手の技術の良し悪しがあるし、何よりそこに依頼主や描き手の希望・解釈が入り込む。写真も、何に焦点を当てるのか、何を切り捨てるのかという取捨選択はしているが、絵画ほど自由気ままにはいかない。あるものを変えてから写すことはできても、無いものは写せない。

写真ができたことで、写真は真実の記録に専念し、絵画は芸術に専念することができるようになっただろう。

しかし写真もだんだん進化して、加工ができるようになっていく。現実の写し鏡としてではなく、ある特定のものをくっきりと写したり、フィルターをかけて雰囲気を変えたり。技術を駆使すれば、写っているものを消すことすらできる。そう考えると、Twitterの写真たちは記録ではなく、むしろ絵画のようだ。題材を撮り、不要なものは消し、自分の望む色に置き換える。

記録としての価値をもって生まれた写真が、記録としての側面をなくしたら、それはいったい何になるのだろう?そして、写真が絵画化する中で、本来の絵画の立場はどうなるのだろう?二つの境目は、絶対にここが違うと言える何かは、何だろう?と、不思議に思うのだ。

 

残念ながら私は芸術にかなり疎く、学術的なことは全く分からないので、この問いに対する答えがあるわけではない。

昨日書いた日記にしろ、この日記にしろ、結局疑問に対する答えは出ていないのだ。学ぶことは人生を豊かにするし、学ばずに物を考えるのは難しい。そして、学ばないうちにこうして日記に記すのは、なんだかとても無責任な気もする。日記を始めてから、書くということは、とても難しいことだと感じている。