カモメノート

自由帳

ら抜き言葉に思うこと

ら抜き言葉がだめ」というのがよくわからない。(私は文法学を学んだわけではないので、これから書くことはすべて憶測にすぎないのだけれど)

 

言葉は生きていて、変わりゆくものである。

元々「おぼろげなり」という言葉は、「普通だ、並大抵だ」という意味だった。背後に否定語を伴うことで「並外れた、格別な」という意味をもたせていた。それが次第に「おぼろげなり」そのものが「並外れた、格別な」という意味を持つようになった。「おぼろげならず」と言うと長いから短くなったのか、誤用したものが定着したのかは分からないが、何はともあれ、真逆の意味を持つに至った。

また、そもそも言葉は音が先にあり、文字は後である。であれば、人間が発音がしやすいように変わるものであるはずだ。音便などはまさしくそれで、例えば「飛んで」は文法的には「飛びて」が正確なはずだが、読みづらいので撥音便化している。でも、「飛んで、なんて誤用だ」とは誰も言わないだろう。それ程に規則性を持って定着しているから、音便という学術的名称を得て、人々に認められている。

ら抜き言葉」の話だが、例えば「見られる」を「見れる」というのは、前者が発音しづらいのも「ら」が抜かれる理由のひとつだろうが、もう一つは受け身や尊敬語と区別しづらいからだと思う。受け身や尊敬語として使うとき、「ら」は抜かない。可能の意味で使うときに「ら」を抜くのだ。

人々が話しやすい、分かりやすいように変わっていった結果が「ら抜き言葉」であるなら、それが文法的に間違っているというのは、後から決められたルールがありのままの自然を縛り付けているようで、どうも好きになれないのだ。(とはいえ、私は「ら」がある方が目で見たときに美しい気がして、個人的には好きである)

 

言葉は生きていて、常に変わっていくし、新しい言葉が生まれていく。最近で言うと「エモい」もそうで、今まで名前の無かった感情に言葉をつけることで、お互いにその感情を共有しあえるようになった。そうやって色んな感情を発見して、形にできるから言葉は面白い。好きな言葉ばかりではないけれど、たくさんの言葉を知れたらうれしいし、「エモい」のような新しい言葉が生まれる瞬間をまた見たいなと思っている。