カモメノート

自由帳

在宅勤務のおとも

在宅勤務ももう3ヶ月目となった。

元々他人と会わなくても平気な方だと思っていたが、やっぱり平気だった。この3ヶ月間、喋る人がいなくて憂鬱と思ったことがない。通話とメッセージがあれば問題ない。あまりに平気すぎて、逆にお母さんに心配された。

 

いつかまたこのような状況になったときに思い出せるよう、在宅勤務を支えるおともを書いておこうと思う。

 

①お茶

私はお茶が好きで好きで、チャノハが原料であれば大抵何でも好きである。会社ではお茶を淹れるために何回も席は外しづらいし、コップの管理も面倒くさい。在宅中はお気軽にお湯を沸かしてお茶を楽しめるので最高だ。

Mug&Pot 凍頂烏龍茶 お徳用TB大 200g

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  • メディア: 食品&飲料
 

買ったのはこれではないが、凍頂烏龍茶。香りが華やかで後味は甘い。おいしい。

買ったのはこれではないが、普洱茶。あの湿気た畳のような黴臭い香りが堪らない。濃く出すとどろりとして禍々しいほどだ。最高においしい。

丸久小山園のお茶は世界で一番美味しいので、世の中の全ての人に飲んでほしい。玉露を飲んだ時、旨味が凝縮されていて、そのあとずっと舌が甘かった。気軽に毎日飲むならティーバッグのほうじ茶、玄米茶がかなりおすすめ。香り高い。やめられない。

 

②チョコレートクッキー

私はチョコレートとクッキーが好きで、チョコレートクッキーモンスターなので、チョコレートクッキーは常に共にある。オフィスでは粉が飛ぶから食べづらいクッキーも、在宅では食べ放題である。体重は3キロ増えた。

不二家 厳選素材カントリーマアム(濃いココア) 16枚

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  • 発売日: 2019/02/21
  • メディア: 食品&飲料
 

 

 

③音楽

在宅勤務中は音楽を聴きながら仕事をしている。Boseのスピーカーを使用している。

 

オイゲン・キケロが好きで、最近は繰り返し聴いている。クラシックのジャズアレンジで有名。

L'adolescente

L'adolescente

 

Der Schlitten eilt

Der Schlitten eilt

 

Valse in C-Sharp Minor, Op. 64 No. 2

Valse in C-Sharp Minor, Op. 64 No. 2

 

Solfeggio in C Minor

Solfeggio in C Minor

 

Sogni d'amore

Sogni d'amore

 

AUTUMN LEAVES

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  • オイゲン・キケロ・トリオ
  • ジャズ
  • ¥255

 

マリオネットの曲は、二階堂麦焼酎のCMから知って聴くようになった。

お嬢様の秘密

お嬢様の秘密

  • マリオネット
  • ワールド
  • ¥153

アルファマの情事

アルファマの情事

  • マリオネット
  • ワールド
  • ¥204



音楽のなかではジプシー・スウィングが好きで、その中ではやはりジャンゴ・ラインハルトが一番好き。寂寥感のある音がする。

Minor Swing

Minor Swing

Beyond the Sea (La Mer)

Beyond the Sea (La Mer)

 

ビレリ・ラグレーンもおすすめ。

Minor Swing

Minor Swing

  • Biréli Lagrène Trio
  • ジャズ
  • ¥255

Douce Ambiance

Douce Ambiance

 

大好きな映画のサントラとしてのminor swing。

なお下記には出てこないが、ジャンゴ・ラインハルトを崇拝するギター弾きが出てくる映画「ギター弾きの恋」が好きで、よく観た。

Minor Swing

Minor Swing

  • Rosenberg Trio
  • ジャズ
  • ¥255

Minor Swing

Minor Swing


④花

あると嬉しい。

こだわりはない。花があればそれでいい。

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⑤万年筆

貰い物だが、書きやすいので重宝している。

 

 

パソコンスタンドや椅子のクッションなどは、在宅勤務が終われば使わなくなり、狭い家を圧迫するので買わない。学生時代の試験勉強もフローリングに寝転がりながら済ませた人間なので、別に不便は感じない。

あとは、たまたま今の仕事は好きだが、仕事のために死ねるほど仕事を(というより会社を)愛していないので、仕事がしやすくなるように自分のお金を費やすのが嫌だ。

 

在宅勤務を支えるといいながら、普段使用しているものの使用頻度が上がっただけだった。在宅勤務でもそうでなくても私の気分は変わらないし、まあなんとかなるとうことなのかな。

 

コロナは早く落ち着いてほしいが、コロナ前の常に人がぎゅうぎゅうにひしめきあっている世界には戻って欲しくなくて、なんだか複雑な気持ちでいる。

 

隅田川の思い出

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「2015年10月1日に東京の本社で15時半から内定式を行います。15時にお集まりください。」

2015年の9月も半ばを過ぎた頃、新卒で内定を貰った会社から、そのような内容のメールを受け取った。

私はそれまで、東京に行ったことがほとんどなかった。関西に住んでいると、たいていの就職活動は大阪で済んでしまうし、東京には受験や最終面接で行くくらいのもので、観光という目的で行こうと思ったことは一度もなかった。

今思えば随分と緊張感のない話だが、15時に集合すればよいのであれば、朝一番で東京に迎えば、どこか観てまわれるかもしれない、と考えた。なお、内定式の時間が遅かったのは、遠方の出席者への配慮だけではなく、夜の飲み会のためだと、入社した後によく分かった。それほどにお酒が好きな会社だった。

東京で行きたいところはどこだろうか、と考えたときに、真っ先に頭に浮かんだのは二つの歌だった。

何し負はばいざ言問はむ都鳥わが思う人はありやなしやと」と、「池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」。

前者は伊勢物語東下りの中に出てくる歌で、隅田川で「都鳥」という名の鳥を見て詠んだ歌だ。後者は伊藤左千夫が、亀戸天神の藤を詠んだ歌で、大好きな一首だった。

墨田に行って、隅田川亀戸天神を見に行こう。隅田川の近くには、長命寺桜餅のお店があるから、関東風の桜餅を食べよう。10月にしては随分季節外れな計画を立てた私は、就職活動用のスーツを着て、黒い鞄を持ち、朝一番の電車で東京で向かった。

実はどのようにして墨田に行ったのか、全く記憶にはないのだが、恐らく押上駅とうきょうスカイツリー駅で降りたのだろう。住宅街を通り、隅田川へ向かった。私は地名が好きなのだが、業平という地名の場所を通ったことは覚えている。

慣れない道を20分ほど掛けて歩くと、隅田川の堤防が見えた。まず桜餅の店に寄り、長命寺桜餅を確か四つ買ったのだと思う。それから堤防を上がって遂に見た隅田川は、予想よりずっと大きく、生臭かった。勿論伊勢物語の時代からは随分と様変わりしていることは分かっているが、都会を流れる大きな川だった。川の流れを眺めながら、桜餅を一つ食べた。美味しかったけれど、道明寺桜餅の方が何倍も美味しいと思った。残りを鞄に詰め込んだことを覚えているので、恐らく家族へのお土産にしたはずだ。餡子が嫌いな妹は食べなかったかも知れない。

晴れた日の10月に、真っ黒なスーツは暑くて、

ジャケットを手にして亀戸天神へ向かった。この移動もあまり記憶がない。

亀戸天神では勿論、藤の花は咲いていなかった。晴々とした空に、赤い太鼓橋が美しかった。池には亀がいた。短歌から感じる、少し陰鬱なもの悲しさは微塵も感じられなかった。晴れた日の下町の神社はとてものどかで、他にも散歩に来ている人がいた。参拝し、境内を散歩し、亀を眺め、おみくじを引いていたら、そろそろ会社へ向かわなければならない時間になっていた。調べると、錦糸町という駅で地下鉄に乗ればいいらしかった。錦糸町とは、なんてきれいな名前なんだろう、と思いながら歩いた。神社のそばには船橋屋という老舗の和菓子屋があり、くず餅が有名らしかった。今度は絶対に食べようと決めた。錦糸町の駅のそばには、広めの公園があった。木の葉っぱが光でキラキラしていた。風が吹いて気持ちよかった。

平日十四時ごろの半蔵門線は空いていた。私は腰掛けて、通り過ぎる駅の名前を見ていた。錦糸町、住吉、清澄白河、水天宮前。全てが綺麗な名前だと思って、うっとりした。

最寄りの駅を降りて会社についてからのことは、 ほとんど覚えていない。記憶にあるのは、同期の中に仲良くなれそうな女の子がいて嬉しかったことと、飲み会で茶道が好きなことを言うと、お嬢さんかと言われて辟易したことくらいだ。飲み会は20時に終わり、その足で大阪へ帰った。

 

それから半年後にその会社へ入り、また半年経った頃に東京へ転勤となった。私は墨田区の家を選んだ。東京生まれの先輩には、女の子の住む場所じゃないよ、西にしたらと言われた。後で知ったことだが、近くの街であるの北千住や錦糸町は歓楽街があるし、所謂下町でお洒落ではないし、渋谷や新宿も遠いからそう言ってくれたのだろう。

しかし、忠告に耳を貸さずに墨田区に住んだ。そして幾度となく隅田川を眺めに行った。大きな川に架かる、夜光る橋をいくつも渡った。滝廉太郎作曲の「花」では、隅田川沿いに桜が咲き誇る様を「げに一刻も千金の 眺めを何にたとふべき」と歌っているが、夜の橋から、浅草の街が光るのを、生臭い真っ黒な川の真ん中を船が下っていくのを見つめながら、その歌を聴いた。桜餅も何回か食べて、その度に道明寺の方が好きだなと思った。

亀戸にはよく散歩に行った。亀戸天神は隣の江東区にあり、少し離れているので、土曜日の昼下がりの散歩にうってつけだった。ただ私は人混みが嫌いだから、遂に一度も藤の季節に行くことはなかった。くず餅は、私の口に合わなかった。関東のくず餅は久寿餅と書き、関西の葛餅とは全く別物なのだそうだ。

錦糸町は確かに歓楽街で、あの日の印象とは全く違ってしまったけれど、古い喫茶店で美味しいホットケーキのお店を見つけた。硬くて分厚い、昔ながらの無骨なホットケーキだった。

 

隅田川も亀戸も、本で見た光景とは全く違っていた。けれど、私はあの街が好きだし、あの川が好きだ。本を読まなければ、きっと行くことも、住むこともなかっただろうと思う。本が私を連れてきてくれたのだ。

今はもうその会社は辞めて、それに伴い墨田からも引っ越してしまったけれど、初めて一人で暮らした街が墨田でよかったと思う。今住んでいる街も、そういう風に好きになれたらいいなと思っている。

古典がすきだった話

日記を書こうと決めた時に、頭に浮かんだ言葉が二つある。

一つ目は、徒然草の冒頭。

つれづれなるままに、ひぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

二つ目は、土佐日記の冒頭だ。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

 

 

高校生のとき、古典が好きだった。

とは言っても、初めは言葉の意味が分からなくて大嫌いだった。数学と並んで嫌いな科目だった。意味が分からないとつまらなくて、先生のことも嫌いだった。

勿論、初めての中間テストは無様な点数だった。ろくに勉強もしなかったのだから、当たり前だ。お母さんに叱られたことを覚えている。

だから、流石に期末テストにむけて勉強した。嫌々ではあったが、無理矢理頭に助動詞の活用を詰め込んでいるうちに、意味が分かるようになってきた。分からないところがあれば、嫌いな先生のところに行って、質問攻めにした。

 

そんなある日、授業で伊勢物語をしたときに、はっとした。意味がなんとなく分かるから、言葉の切れ目がなんとなくわかる。意味の切れ目を分かった状態で音読したときに、なんて美しい言葉なんだろう、と感動したのだ。

 

昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国とて求めて行きけり。

 

残念ながら、一目惚れを経験したことはないけれど、伊勢物語東下りは聞いた瞬間に惚れた。あまりに綺麗な音なので、授業中に泣いた。

 

それが古典を好きになったきっかけだ。それから私は授業中じゃなくても古典の教科書を読み、問題集を解き、通学中に単語を覚えた。

質問をしているうちに、古典の先生も大好きになった。友達はみんな、私が古典よりも先生を好きで好きでたまらないと思っていたかも知れないけれど、それは違う。古典も同じくらいに大好きだった。古典を好きになったのはその先生のおかげなのだから、先生を好きなのも当たり前の話だった。

先生は、杓子定規に文法や意味を教える人ではなかった。解釈や、おすすめの古典を教えてくれた。私は古典を読み漁り、先生とたくさんの話をした。

二年生に上がり、先生が教科担当を外れてからも、古典を好きだった。先生は私に、源氏物語の本をくれた。二年生と三年生の間の春休みに、私の通っていた高校で勤続十年を迎えた先生は、転勤が決まった。「一つの高校に最長十年まで」は大阪市立の高校のルールだったので、覚悟はしていたものの、それを知った私は寂しくて泣き、先生の最終出勤日まで毎日職員室に通い詰めた。

その年は丁度東日本大震災が起きた年で、地震がきたその時間も、職員室にいた。先生と「黄鶴楼送孟浩然之広陵」の話をしていた時に揺れたのだ。もう名前も覚えていない現国の先生が、「結構揺れてる。扉開けたほうがいいかな。下見てきます」と言って部屋から出て行った。職員室のテレビが付いて、やがて東北地方で地震が起きたことが分かったとき、空気が凍りついた。東北地方の地震で、大阪市内が揺れるだなんて、誰も思いもしないだろう。その日はそれ以上話をする気にならず、一時間半ほどかけて祖母の家に帰り、東北に酷い津波が来たことを知った。ニュースを見て我が目を疑ったのは人生で三度目だった。一度目は小学二年生の時のアメリ同時多発テロ、二度目は小学六年生の時の福知山線脱線事故、三度目が東日本大震災津波地震が起きたのは確か金曜日で、土日は家でテレビを見つめていた。福島原発の爆発を見た。

大阪は被害もなく、週が明けるとまた高校に通い始めた。地震から一週間半ほどしたあと、確か3月の22日頃に、先生は最終出勤日を迎えた。実はよく先生のところに一緒に通っていた友達がいて、彼女と一緒に先生に会いに行き、職員室で二人で泣いた。先生は、今生の別れじゃないんですから、と笑っていた。

三年生に上がり、職員室に行っても先生はいなくなっていた。廊下ですれ違うこともなくなって、初めの一、二ヶ月は本当に辛かった。それでも古典は好きで、新古今和歌集を読み、更科日記を読み、紫式部日記を読んだ。私は真面目な生徒ではなかったので、授業はろくに聞いていなかったのだが、以前に増して聞かなくなった。

そして、六月、雨が降っていた日。私は二年生の時に演劇部を辞めて、茶道部に入り直していた。その日は稽古があり、夏だったので風炉釜で柄杓点前をした気がする。稽古は大抵18時頃まであるのだが、その日は19時から塾があり、準備のことも考えると、17時には学校を出なければならなかった。お茶の先生に挨拶をして、先に部室を出た。もう一人先に帰らなければならない子がいて、一緒に帰ることにした。丁度下校時刻で、校門のあたりには何人もの生徒がいた。私も傘を差して帰ろうとした。その時、ふと、校舎を囲む白壁の向こうに、ビニール傘を差した人がいるのが見えた。壁伝いに、校門に向かって歩いてくる。壁が高いので顔は見えなかったし、何の変哲もないビニール傘だった。なのに、胸が騒ついた。ビニール傘を見た瞬間に、時間が一瞬止まったような気がしたのだ。

門扉に差し掛かった時、現れたのは果たして先生だった。先生も少し驚いていた。私は軽く挨拶を交わし、先生とすれ違った。塾に行かなくてはならなかったから。先生が校舎に入っていって、私は友人と駅に向かって歩いていった。小さな坂道の途中で、友人は「行かんでいいん?」と聞いた。私は「戻る」と答えて、走って学校へ戻った。今思うとその子も用事があったはずなのに、一緒に戻ってくれた。塾には、「今日は遅れます」と電話で告げた。

かつて先生がいた時、一緒に通っていた友人も茶道部だったから、私は部室へ戻り、その子を呼んだ。「先生が来てる!」と言うと、その子は「嘘!行く!」と叫んで、部室を飛び出してきた。

三人で職員室を覗くと、先生がいた。

私たちが先生のところに通い詰めていることはよく知られていたから、他の先生がおかしそうに笑っていた。先生は恥ずかしそうにしながら職員室から出てきて、私と友人は嬉しくて泣いた。後任の先生に頼まれて、資料を渡しに来たらしかった。友人は「いざ、かいもちいせむ って言ってください」と頼み、先生は何でやねん、と言いながらも、応じてくれた。皆で笑った。稚児のそらね。古典で一番最初に習う話。初めは大嫌いな話だったのに、そういうことがあって、今となっては思い出深い、大切な話だ。

 

その後、高校三年生の私は大学受験を経て、文学部でも何でもない学部に進学した。悩んだ末に国文学を選ばなかったのは、他にしたい勉強があったからだが、後ろめたさもあった。つまり、私は本当に古典が好きだったのだろうか?先生が好きなのを、古典が好きなのだと勘違いしているだけなのではないか?そう思ったこともある。

 

しかし大学一回生になった春、大学の最寄りの出町柳駅で降り、鴨川デルタを臨む加茂大橋を渡りながら、ふと後ろを振り返って見ると、鴨川沿いに植えられた桜が咲き誇り、並んで植えられた柳の糸のような葉と絡み合って、本当に美しかったことを覚えている。そのときに、瞬時に頭に浮かんだのは古今和歌集の歌だった。

 

見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

 

ああ、あの歌は、この光景のことだと思った。その時人生で初めて、本当の意味で、古典を勉強してきてよかった、色んな本を読んできてよかったと、心から思った。

 

社会人になって、古典を読む機会は減ってしまったけれど、今でも先生と語り合ったことと、鴨川の景色は忘れられない思い出として残っている。先生とは、大学一回生の時に京橋の英國屋で会ったきりだが、あれが今生の別れなのかもしれない。学校に先生がいた時は本当に幸せで、あの頃に戻りたいなと思うこともある。そういう時は、高校時代に教えてもらったお話を誦じてみると、今でも先生に会えるような気がするのだ。

日記をはじめる

小学三年生の頃、日記をつけていた。

それも、ほとんど毎日といっていいほどの頻度で書いていた。夜ごはんのメニュー、今日の天気、友達と遊んだこと、学校が嫌だったこと。あろうことか、イラストを添えてある日まである。

そんな日記は半年ほどで突然途切れてしまい、それから私は人生で日記をつけたことがない。

正確に言うと、つけようとしたことはあるが、いつも二日で終わるのだ。三日ともたない。

 

だから、小学三年生の私が何を思って日記をつけはじめたのかは勿論、なぜ半年も続けることができたのか、全く見当がつかないのだ。今の私とは別人のようにすら思われる。

けれど、数年前に見つけたその日記を、お母さんが読んでとても喜んだのを見て、どうして日記をやめてしまったのだろう?もっと続けていれば、もっとお母さんは喜んだかもしれないのに、と後悔したことはよく覚えている。

 

 

 

こうして文字に起こすと、私はこんなことを考えているのかと、我ながら驚くことがある。

私は自分のことがよく分からない。だから、他人に自分のことを話すのは苦手だ。好きな食べ物も、好きな音楽も、好きな遊びもあるはずなのに、うまく言葉にできない。

それは、文字や言葉で物事を理解するタイプなのに、今まで言語化をしてこなかったからなのだと思う。考えていることを話せるようになるために、日記を通して言語化する練習をしていきたい。

 

まずは、三日以上続くかどうかだけれど。