カモメノート

自由帳

古典がすきだった話

日記を書こうと決めた時に、頭に浮かんだ言葉が二つある。

一つ目は、徒然草の冒頭。

つれづれなるままに、ひぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

二つ目は、土佐日記の冒頭だ。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

 

 

高校生のとき、古典が好きだった。

とは言っても、初めは言葉の意味が分からなくて大嫌いだった。数学と並んで嫌いな科目だった。意味が分からないとつまらなくて、先生のことも嫌いだった。

勿論、初めての中間テストは無様な点数だった。ろくに勉強もしなかったのだから、当たり前だ。お母さんに叱られたことを覚えている。

だから、流石に期末テストにむけて勉強した。嫌々ではあったが、無理矢理頭に助動詞の活用を詰め込んでいるうちに、意味が分かるようになってきた。分からないところがあれば、嫌いな先生のところに行って、質問攻めにした。

 

そんなある日、授業で伊勢物語をしたときに、はっとした。意味がなんとなく分かるから、言葉の切れ目がなんとなくわかる。意味の切れ目を分かった状態で音読したときに、なんて美しい言葉なんだろう、と感動したのだ。

 

昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国とて求めて行きけり。

 

残念ながら、一目惚れを経験したことはないけれど、伊勢物語東下りは聞いた瞬間に惚れた。あまりに綺麗な音なので、授業中に泣いた。

 

それが古典を好きになったきっかけだ。それから私は授業中じゃなくても古典の教科書を読み、問題集を解き、通学中に単語を覚えた。

質問をしているうちに、古典の先生も大好きになった。友達はみんな、私が古典よりも先生を好きで好きでたまらないと思っていたかも知れないけれど、それは違う。古典も同じくらいに大好きだった。古典を好きになったのはその先生のおかげなのだから、先生を好きなのも当たり前の話だった。

先生は、杓子定規に文法や意味を教える人ではなかった。解釈や、おすすめの古典を教えてくれた。私は古典を読み漁り、先生とたくさんの話をした。

二年生に上がり、先生が教科担当を外れてからも、古典を好きだった。先生は私に、源氏物語の本をくれた。二年生と三年生の間の春休みに、私の通っていた高校で勤続十年を迎えた先生は、転勤が決まった。「一つの高校に最長十年まで」は大阪市立の高校のルールだったので、覚悟はしていたものの、それを知った私は寂しくて泣き、先生の最終出勤日まで毎日職員室に通い詰めた。

その年は丁度東日本大震災が起きた年で、地震がきたその時間も、職員室にいた。先生と「黄鶴楼送孟浩然之広陵」の話をしていた時に揺れたのだ。もう名前も覚えていない現国の先生が、「結構揺れてる。扉開けたほうがいいかな。下見てきます」と言って部屋から出て行った。職員室のテレビが付いて、やがて東北地方で地震が起きたことが分かったとき、空気が凍りついた。東北地方の地震で、大阪市内が揺れるだなんて、誰も思いもしないだろう。その日はそれ以上話をする気にならず、一時間半ほどかけて祖母の家に帰り、東北に酷い津波が来たことを知った。ニュースを見て我が目を疑ったのは人生で三度目だった。一度目は小学二年生の時のアメリ同時多発テロ、二度目は小学六年生の時の福知山線脱線事故、三度目が東日本大震災津波地震が起きたのは確か金曜日で、土日は家でテレビを見つめていた。福島原発の爆発を見た。

大阪は被害もなく、週が明けるとまた高校に通い始めた。地震から一週間半ほどしたあと、確か3月の22日頃に、先生は最終出勤日を迎えた。実はよく先生のところに一緒に通っていた友達がいて、彼女と一緒に先生に会いに行き、職員室で二人で泣いた。先生は、今生の別れじゃないんですから、と笑っていた。

三年生に上がり、職員室に行っても先生はいなくなっていた。廊下ですれ違うこともなくなって、初めの一、二ヶ月は本当に辛かった。それでも古典は好きで、新古今和歌集を読み、更科日記を読み、紫式部日記を読んだ。私は真面目な生徒ではなかったので、授業はろくに聞いていなかったのだが、以前に増して聞かなくなった。

そして、六月、雨が降っていた日。私は二年生の時に演劇部を辞めて、茶道部に入り直していた。その日は稽古があり、夏だったので風炉釜で柄杓点前をした気がする。稽古は大抵18時頃まであるのだが、その日は19時から塾があり、準備のことも考えると、17時には学校を出なければならなかった。お茶の先生に挨拶をして、先に部室を出た。もう一人先に帰らなければならない子がいて、一緒に帰ることにした。丁度下校時刻で、校門のあたりには何人もの生徒がいた。私も傘を差して帰ろうとした。その時、ふと、校舎を囲む白壁の向こうに、ビニール傘を差した人がいるのが見えた。壁伝いに、校門に向かって歩いてくる。壁が高いので顔は見えなかったし、何の変哲もないビニール傘だった。なのに、胸が騒ついた。ビニール傘を見た瞬間に、時間が一瞬止まったような気がしたのだ。

門扉に差し掛かった時、現れたのは果たして先生だった。先生も少し驚いていた。私は軽く挨拶を交わし、先生とすれ違った。塾に行かなくてはならなかったから。先生が校舎に入っていって、私は友人と駅に向かって歩いていった。小さな坂道の途中で、友人は「行かんでいいん?」と聞いた。私は「戻る」と答えて、走って学校へ戻った。今思うとその子も用事があったはずなのに、一緒に戻ってくれた。塾には、「今日は遅れます」と電話で告げた。

かつて先生がいた時、一緒に通っていた友人も茶道部だったから、私は部室へ戻り、その子を呼んだ。「先生が来てる!」と言うと、その子は「嘘!行く!」と叫んで、部室を飛び出してきた。

三人で職員室を覗くと、先生がいた。

私たちが先生のところに通い詰めていることはよく知られていたから、他の先生がおかしそうに笑っていた。先生は恥ずかしそうにしながら職員室から出てきて、私と友人は嬉しくて泣いた。後任の先生に頼まれて、資料を渡しに来たらしかった。友人は「いざ、かいもちいせむ って言ってください」と頼み、先生は何でやねん、と言いながらも、応じてくれた。皆で笑った。稚児のそらね。古典で一番最初に習う話。初めは大嫌いな話だったのに、そういうことがあって、今となっては思い出深い、大切な話だ。

 

その後、高校三年生の私は大学受験を経て、文学部でも何でもない学部に進学した。悩んだ末に国文学を選ばなかったのは、他にしたい勉強があったからだが、後ろめたさもあった。つまり、私は本当に古典が好きだったのだろうか?先生が好きなのを、古典が好きなのだと勘違いしているだけなのではないか?そう思ったこともある。

 

しかし大学一回生になった春、大学の最寄りの出町柳駅で降り、鴨川デルタを臨む加茂大橋を渡りながら、ふと後ろを振り返って見ると、鴨川沿いに植えられた桜が咲き誇り、並んで植えられた柳の糸のような葉と絡み合って、本当に美しかったことを覚えている。そのときに、瞬時に頭に浮かんだのは古今和歌集の歌だった。

 

見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

 

ああ、あの歌は、この光景のことだと思った。その時人生で初めて、本当の意味で、古典を勉強してきてよかった、色んな本を読んできてよかったと、心から思った。

 

社会人になって、古典を読む機会は減ってしまったけれど、今でも先生と語り合ったことと、鴨川の景色は忘れられない思い出として残っている。先生とは、大学一回生の時に京橋の英國屋で会ったきりだが、あれが今生の別れなのかもしれない。学校に先生がいた時は本当に幸せで、あの頃に戻りたいなと思うこともある。そういう時は、高校時代に教えてもらったお話を誦じてみると、今でも先生に会えるような気がするのだ。